「治世の能臣、乱世の姦雄」の評で知られるキング曹操(そうそう)。
彼の残した事績を知れば、良くも悪くも才能に溢れた英傑であったことは誰もが認めるところです。ところで、世間に流布している曹操像といえば、色白だったり細目だったり背が低かったりしますが、こうしたイメージは一体どこからやってきたのでしょう。
この記事の目次
何で曹操は白塗りの顔なの?
まず色白ですが、これは京劇の影響のようです。京劇で演じられる曹操役は白塗りの顔で、これは奸智に長けた、つまり悪賢い人物を示します。血の気が通っていない=情がないという表現なのかもしれません。日本だと狡猾な人は「腹黒い」ですが、中国だと「面白い」になるのですね。
何で曹操の目は細いの?
次に細目ですが、これは物語の影響です。小説『三国志演義』の中で曹操は「身長は七尺、 細い眼に長いヒゲ」となっています。7尺は、物語が書かれた明代の基準だと 2 メートル越えしてしまうので、物語の舞台である後漢代の設定で約 166.3 cm なのでしょう。166.3cm・・・・・・現代人の感覚だと確かにやや低めです。
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歴史書の曹操はどうだったの?
それではいざご公儀の歴史書『三国志』はというと、実は曹操の容貌については触れられておりません。特筆すべき特徴がなかったのでしょうか。その代わり、南朝宋の時代に作られた民間説話集『世説新語』には面白い話が収録されています。
それは「曹操が匈奴の使者と面会する際のこと。自分の貧相な外見では遠国にプレッシャーを与えるのに不足と考えた曹操は、臣下の崔琰を身代りに仕立て、自分は刀を持ち 従者のふりをして座の脇に控えた。会見後、曹操はスパイに感触を探らせた。
スパイが『魏王は如何でしたか?』と問うと、使者は『魏王の評判も大したものだが、その傍にいた従者の方こそ、まさしく英雄だ』と答えた。曹操はこれを聞き、この使者を追わせて殺した」というもの。
せっかくナメられぬようわざわざ身代りまで立てたのに、それが裏目に出て 「魏王は評判ほどではない」とか「いずれ下剋上が起きるだろう」なんて報告されたらと困ると思ったのでしょう。この話を信じるなら、曹操は自他ともに認める小さいオジサンだったということになります。
しかし身体は小さくとも中身は隠しきれぬカリスマ性が滲み出ていたようです。有名人なんかでよくある「オーラが違う」という現象ですね。
この逸話の注釈には、正史『三国志』の注釈を作る際の参考資料にもなった『魏氏春秋』の「曹操は姿形こそ短小ながら、精神は英気に溢れていた」という一文も引用されており、あながち作り話とも思いがたいものがあります。
正史『三国志』では頻繁に身長について記述されている
正史『三国志』では、人物紹介でしばしば身長に言及していますが、上背があったり身体が大きい人ほど威風堂々として立派と表現される傾向があるので、背が高いことが美点であり、相対的に背が低いことは欠点と考えられた時代だったのでしょう。
その中で、この 身代りエピソードは、真偽は不明としても、曹操の欠点(身長)と美点(英雄性)両方を 描いているところに信憑性を感じます。それゆえ曹操チビ説が広まったのでしょう。
歴史的にもチビな英雄は多い
歴史的にもチビな英雄というのは少なくありません。たとえばナポレオンも「チビ伍長 (petit caporal)」という愛称がついていましたし、源義経や豊臣秀吉も小さかったと言わ れています(もっとも、昔の日本人は平均的にみんな背が低いので何とも言えませんが)
それにしても曹操配下の猛将・楽進などは正史の人物紹介でしょっぱなから「容貌は短小だが豪胆」と書かれているのに、『魏氏春秋』を参考資料にしていたはずの正史の注釈者・裴松之が 何故曹操の人物紹介にはその特徴を記さなかったのかは謎です。
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チビの基準
ところで中国史的な「チビ」とはどの程度のことを言うのでしょうか。スイスのバーゼル 大学病院の病理学者リュグリ氏の研究ではナポレオンの身長は 167cmだったと発表されています。これは軍人としては低い方というだけで、当時のフランス人全体からすると平均以上だとされます。
つまり一口に「チビ」と言っても基準には様々あるのです。
歴代のチビ達
そこで、宋代に編纂された『太平御覧』の、その名も「短中国人」篇という何とも身もフタもないチビ特集を参考に、チビとされた例を見てみましょう。なお単位は書物の編纂年代に合わせて換算しています。
●前漢『史記』:戦国時代、斉の淳于髡は身長七尺(約 161.7cm)に満たなかった。
●後漢『漢書』:朱儒(小人症など身長が低い人の蔑称)は身長三尺(約 71.3cm)余り。
また秦~漢代の人である張蒼は五尺(約 118.8cm)足らずで、彼の父親と子どもは八尺(約 190cm)以上、孫は六尺(約 142.5 cm)余りであった。
●後漢『論衡』:前漢の張湯は身長八尺(約 190cm)余りあったが、その父親は五尺(約 118.8cm)足らずだった。
●三国時代『孔子家語』:戦国時代の斉国の高柴、字・子羔は六尺(約 145.2 cm)に満たなかった。
ここから、古代は一貫して 7 尺を下回ると低身長で、3 尺を切ると小人症と思われていたことが分かります。ただし注意も必要です。
魏志倭人伝から読み取る身長
たとえば『魏志倭人伝』の通称で有名な『三国 志』魏書東夷伝では「倭国の南にある朱儒の国では、人々は身長三、四尺(72.6~96.8cm) である」とありますが、考古学の調査によると、この弥生~古墳時代における南九州離島 の男性の平均身長は大体 154cm と推定されるそうです。
つまり文献に記載されたサイズに は誇張が入っている場合もあり必ずしも鵜呑みにできません。しかし『三国志』内の身長 に関する記述を並べてみると、やはり7 尺が中背、7 尺未満が短身、7 尺後半以上が長身とされており、その他の史料でも 7 尺は人体のたとえに使われるなど認識が一致しているので、少なくとも平均値が 7 尺であったことは確かなようです。
そこへいくと『三国志演義』の曹操は実は中背で、『世説新語』の曹操は7尺未満ということになりますね。
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曹操のお墓らしきが見つかり話題
2009年、曹操のものではないかとされるお墓が河南省安陽県で見つかり、大きな話題を呼びました。墓室に埋葬されていた推定 60 歳前後の男性の骨は、発見当時は盗掘の影響で棺ともども原型を留めていませんでしたが、研究の結果、身長 155cm であるとの河南省文物局による発表が報道されました。
詳細不明なため鵜呑みにはできませんが、本当であれば 7 尺(約 166.3 cm)未満なのでチビ認定は間違いなしです。そしてもしこれがキングご本人だとすれば、チビ説は動かぬ史実となります。
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曹操の顔の復元予想図
ちなみに曹操の顔の復元予想図なるものが上海の復旦大学の李輝教授によって発表されています。専門家ではないためどこまで妥当かは判断できませんが、ご参考までに。
※お詫び※
一部記述に誤りがありましたので訂正させていただきました。訂正箇所は赤い文字の部分です。
間違った情報をお伝えしてしまい心よりお詫び申し上げます(2016.2.27 楽凡)
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