袁術公路(えんじゅつ・こうろ:155~199)は、三国志演義の影響で大変に影の薄い扱いです。
ざっと演義を見てみると、袁紹(えんしょう)の従兄弟で反菫卓連合軍では、食糧補給を担当していますが、孫堅(そんけん)の大活躍に嫉妬して食糧を送らず菫卓(とうたく)軍を勢いづかせるなど足を引っ張る役です。
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THE 勘違い男・袁術 (えんじゅつ)
また、玉璽を孫策(そんさく)から譲られた途端に、
「これで俺も皇帝だ!」
と勘違いして皇帝に即位し贅沢な暮しをして民を苦しめ、最後には、曹操(そうそう)、孫策(そんさく)、呂布(りょふ)、劉備(りゅうび)の連合軍に四方から攻められて本拠地寿春を放棄せざるを得なくなり、最後には飢えと渇きと絶望の中で病死するという典型的な因果応報「アホ」君主として描かれています。
しかし、これは極めて一面的な見方に過ぎず、殆どデフォルメされていると言ってもいい程です。もっとも袁術(えんじゅつ)は本当はイイ人だけど悪役扱いという意味ではなく、実際に悪党なんですが(笑)こんな単純な悪党ではないのです。
正史の袁術(えんじゅつ)はどうなの?
正史の袁術(えんじゅつ)は、三国志の英雄の中では、一番最初に豊かな根拠地、南陽郡を西暦191年に支配しています。南陽郡の太守は張資(ちょうし)という人物でしたが、孫堅(そんけん)が菫卓(とうたく)を討伐する途中にこれを殺害し、空白になった太守の座に袁術(えんじゅつ)が座ったのです。
孫堅(そんけん)は袁術(えんじゅつ)の支配下に入り、その手足として戦い菫卓(とうたく)を追い詰めています。実際の袁術(えんじゅつ)が孫堅(そんけん)に嫉妬した事はなく、終始上手く使い自己の勢力を拡大しているのが事実です。
勢力を拡大していった袁術(えんじゅつ)の実力
南陽は郡ではありますが、人口100万人で経済的にも裕福でした。袁術(えんじゅつ)は、ここで兵力を徴発し10万の大軍を擁していたと言われ、反菫卓連合軍、20万人の一角を担っていたのです。事実上、反菫卓連合では、盟主の袁紹(えんしょう)に次ぐ実力者と言えます。
袁術(えんじゅつ)の強みって何?
袁術(えんじゅつ)は、対抗勢力を味方につけるのが上手く、劉表(りゅうひょう)と袁紹(えんしょう)の同盟軍に対抗する為に、袁紹(えんしょう)に身内を殺されて恨んでいる公孫瓚(こうそんさん)を焚きつけて、味方に引き込んだり、、
陶謙(とうけん)の後を継いで徐州を支配した劉備(りゅうび)を牽制する為に、配下にいた呂布(りょふ)を買収して、劉備(りゅうび)に背かせたりなど、自分は表に出ずに並み居る群雄を上手く動かしているのです。
西暦193年、袁術(えんじゅつ)は、南陽郡を出発し、兗州を領有する曹操(そうそう)を攻撃しますが曹操(そうそう)は、袁紹(えんしょう)、劉表(りゅうひょう)と連合軍を結んでこれを打ち破ります。
袁術(えんじゅつ)は敗走しますが、背後の南陽郡は劉表(りゅうひょう)が兵を送り占拠したので袁術(えんじゅつ)は戻る土地を失い揚州に逃亡します。
しかし、その時、揚州の太守だった陳温(ちんおん)が病死、これをチャンスと見た袁術(えんじゅつ)は、すかさず揚州の拠点である寿春に入り、ここを実行支配します。
本当の後任である劉繇(りゅうよう)は袁術(えんじゅつ)を恐れて入り込めず曲阿に退却せざるを得ない程でした。勝機と見るや、なりふり構わず土地を手に入れる早業は、他の群雄に全く引けを取りません。
袁術(えんじゅつ)は、漢王朝に対してどう思ったのか?
それに演義では、玉璽を孫策(そんさく)から手にいれて、有頂天になりこれで皇帝になれると袁術(えんじゅつ)は自惚れたとなっていますが、それは事実ではなく、袁術(えんじゅつ)は菫卓(とうたく)が洛陽に入った時点で、漢王朝の命運は尽きたと考えていました。
実際に、袁術(えんじゅつ)の時代から、30年もすると、曹操(そうそう)の後継者である曹丕(そうひ)は献帝(けんてい)に譲位をせまり、自ら魏の皇帝になっています。
それに次いで、劉備(りゅうび)も孫権(そんけん)もそれぞれ皇帝に即位しているのですから袁術(えんじゅつ)の見方は間違っていなかったのです。
袁術(えんじゅつ)は何で失脚したの?
もっとも、袁術(えんじゅつ)の場合には皇帝即位が197年と早すぎて、周囲の反感を買ってしまうという事がありましたが、このように袁術(えんじゅつ)は、並み居る群雄の間を上手く立ち廻りましたが、団子状態のレースから曹操(そうそう)と袁紹(えんしょう)が抜きん出て、さらに子飼いの部下の孫策(そんさく)が自立すると影響力を低下させます。
相手のフンドシで相撲を取ろうにも、利用出来そうな相手が、袁紹(えんしょう)と曹操(そうそう)では、力が違いすぎていました。また内政の才能が無かった袁術(えんじゅつ)は贅沢三昧で揚州の国力をすり減らしそれに飢饉と敗戦による兵力消耗が拍車を掛けます。
それに袁術(えんじゅつ)は皇帝を名乗った事で献帝(けんてい)を擁立した曹操(そうそう)に睨まれていて、これを利用するのが難しい立場になり、選択肢を失い、袁紹(えんしょう)を頼って逃げる途中に曹操(そうそう)の命を受けた劉備(りゅうび)と朱霊(しゅれい)に敗れて敗走し、途中で病死してしまうのです。
このように袁術(えんじゅつ)は抜け目が無く、相手を騙し利用する事はあれ、相手に騙され利用される事はありませんでした。ただ、民衆を愛する事を知らず、野心を先走らせて、皇帝を名乗るなど空気の読めない事をしたので、時代に見捨てられる形で人生を閉じたのです。
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