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孫策、旧勢力に恨まれ無念の死を遂げる

2015年3月15日


 

呂布 VS 曹操

 

三国志の英雄、曹操(そうそう)袁紹(えんしょう)劉備(りゅうび)

呂布(りょふ)、袁術(えんじゅつ)達が、中原の覇権を巡り、

死闘を繰り広げている頃、長江を渡った華南地域でも

大きな歴史的な動きが起こっていました。

 

それが、孫堅(そんけん)の遺児である小覇孫策(そんさく)の

電撃的な江南、江東の攻略です。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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小覇王ってどういう意味?

孫策

 

因みに小覇王とは、小さい覇王という意味ではなく、

覇王ジュニアという意味で、若き覇者という意味になります。

確かに孫策(そんさく)にぴったりの称号だと思います。

 

そもそも孫策(そんさく)は今まで何をしてたの?

袁術 伝説 ゆるキャラ

 

元々は、袁術(えんじゅつ)の下で武将として活躍していた孫策(そんさく)は、

短期間で武将としての能力を磨き、20歳では、袁術(えんじゅつ)から離れて、

揚州の曲阿という地域に地盤を持って自立。

 

長江を南下して、王朗(おうろう)、許貢(きょこう)という

江南地帯の実力者を次々に撃破して、中原とは独自に、

巨大な勢力を創り上げていたのです。

 

 

江南地域は中原とどう違うの?

 

元々、江南地域は、水が豊富で土壌も肥えていて、

米が豊に獲れる程の地域です。

 

そこを、弱冠20歳、そこそこの孫策(そんさく)が制圧していたのです。

 

曹操も孫策に注目していた

抜き出た曹操

 

中原で献帝(けんてい)を擁立して、他の群雄に抜きん出ていきつつあった

曹操(そうそう)もこの小覇王の動向を気にしていて、

あわよくば味方につけようと、従兄弟の曹仁(そうじん)の娘を

孫策(そんさく)に与えて、懐柔策を取っていました。

 

しかし、若い覇王は、その程度の懐柔では満足しません。

すでに、「中原で鹿を追う」(※天下を争う事を言う慣用句)としていた

孫策(そんさく)は、曹操(そうそう)に大司馬の位を要求しています。

 

 

大司馬は軍事の最高職の階級ですが、曹操(そうそう)は

孫策(そんさく)の生意気な態度に立腹したのか、これを断りました。

 

 

激怒した孫策、曹操を襲撃しようと目論む

孫策

 

それに激怒した孫策(そんさく)は、大兵力を持って曹操(そうそう)の

本拠地である許都を襲撃しようという計画を立てていきます。

 

当時の曹操(そうそう)は、袁紹(えんしょう)との戦いに忙しく、

余裕が無い状態であり、計画が隠密裏で進めば、もしかしての可能性はありました。

 

 

ところが、孫策(そんさく)の計画は、元の呉の領主である

許貢(きょこう)によって、曹操(そうそう)に密告されてしまったのです。

 

 

「おいおい、危ねえ、危ねえ、、孫策の野郎、そんな事を考えて

いやがったのか、、」

 

 

曹操(そうそう)は、孫策(そんさく)の計画を知ると、

許都の守りを固めてしまいました。

 

孫策(そんさく)は、許貢(きょこう)が秘密を漏らした事を知って、

激怒して、これを殺してしまいます。

 

 

正史の記録の許貢(きょこう)

 

 

正史の記録によると、許貢(きょこう)は、曹操(そうそう)に対して、

 

「孫策は、楚の覇王、項羽(こうう)に似て自信過剰で危険な野心家です。

是非とも、勅命によって都に招聘して身分を与えて飼い殺しにすべきで、

江南に放置しておくと、とんでもない禍いを招くでしょう。」

 

 

という孫策(そんさく)を警戒せよという内容の手紙を書いたとされています。

 

 

その手紙は、孫策(そんさく)の配下によって確保されて

孫策(そんさく)に露見してしまい

 

許貢(きょこう)は「この手紙は自分が書いたものではない」と強弁しましたが、

許されず、絞首刑に処されたとされています。

 

 

が、話はこれで終わりませんでした。

 

許貢(きょこう)には、彼が世話している何名かの食客が存在したのです。

 

食客とは、衣食住の世話を見てもらう代りに、主君の雑用をこなす

人々の事で、多くが任侠の徒だったようです。

 

 

食客は孫策を討つことを決意する

 

許貢(きょこう)が殺された事を知った、その食客は、

どうしても仇を討つと、仲間と3名で、孫策(そんさく)をつけ狙い、

とうとう、孫策(そんさく)が狩りに出て、一人の時を見計らい、襲いかかりました。

 

孫策(そんさく)は、これら3名を一人で斬り殺してしまいます。

 

が、死ぬ寸前に1人が放った矢が孫策(そんさく)の頬を貫通してしまうのです。

 

傷は、死にいたる程ではありませんでしたが、

顔に出来た傷は、ハンサムで知られた孫策(そんさく)の容貌を著しく悪くしました。

 

 

孫策(そんさく)の頬に傷

孫策 頬

 

 

孫策(そんさく)は、包帯を取り外して見えた頬の醜い傷を見るなり、

 

 

「なんという事だ、このような無様な姿になっては、

天下に覇を唱える事は、もはや叶わぬ!!」

 

 

と絶叫し、その瞬間に頬の傷が開いて大量の出血を起こしたと伝承では言われています。

 

 

孫策・後継者を孫権(そんけん)に委ねる

孫権と三国アヒル

 

以後、孫策(そんさく)の容態は日に日に悪くなり、死は避けられない運びになります。

死期を悟った孫策(そんさく)は、息子ではなく、

弟の孫権(そんけん)を枕元に呼び、自分に代わって呉の政治を見るように告げ、

26年の生涯を閉じました。

 

 

孫策の人生

孫策

 

 

通常、一国の主ともなれば、身辺に恨みを買うものですから、

警戒を厳重にし、一人にはならないのが普通です。

 

 

ところが、この孫策(そんさく)は、きままな所があり、覇者となり、

数万の軍勢を有する立場になっても少数の部下と狩りに行ったり

チキンレースのように許都に近い所で野営したりとリスクを軽視する傾向がありました。

 

 

正史には、劉繇(りゅうよう)の配下であった太史慈(たいしじ)と

狩りの最中に出会い、挑発に応じて、一騎打ちをして引き分けたという逸話まであります。

ここで負けていたら、後の呉は無かったのですから、孫策(そんさく)の

ワガママ気ままは、天性のモノだったのでしょう。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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