三国志の英雄、曹操(そうそう)袁紹(えんしょう)劉備(りゅうび)
死闘を繰り広げている頃、長江を渡った華南地域でも
大きな歴史的な動きが起こっていました。
それが、孫堅(そんけん)の遺児である小覇王、孫策(そんさく)の
電撃的な江南、江東の攻略です。
この記事の目次
小覇王ってどういう意味?
因みに小覇王とは、小さい覇王という意味ではなく、
覇王ジュニアという意味で、若き覇者という意味になります。
確かに孫策(そんさく)にぴったりの称号だと思います。
そもそも孫策(そんさく)は今まで何をしてたの?
元々は、袁術(えんじゅつ)の下で武将として活躍していた孫策(そんさく)は、
短期間で武将としての能力を磨き、20歳では、袁術(えんじゅつ)から離れて、
揚州の曲阿という地域に地盤を持って自立。
江南地帯の実力者を次々に撃破して、中原とは独自に、
巨大な勢力を創り上げていたのです。
江南地域は中原とどう違うの?
元々、江南地域は、水が豊富で土壌も肥えていて、
米が豊に獲れる程の地域です。
そこを、弱冠20歳、そこそこの孫策(そんさく)が制圧していたのです。
曹操も孫策に注目していた
中原で献帝(けんてい)を擁立して、他の群雄に抜きん出ていきつつあった
曹操(そうそう)もこの小覇王の動向を気にしていて、
あわよくば味方につけようと、従兄弟の曹仁(そうじん)の娘を
孫策(そんさく)に与えて、懐柔策を取っていました。
しかし、若い覇王は、その程度の懐柔では満足しません。
すでに、「中原で鹿を追う」(※天下を争う事を言う慣用句)としていた
孫策(そんさく)は、曹操(そうそう)に大司馬の位を要求しています。
大司馬は軍事の最高職の階級ですが、曹操(そうそう)は
孫策(そんさく)の生意気な態度に立腹したのか、これを断りました。
激怒した孫策、曹操を襲撃しようと目論む
それに激怒した孫策(そんさく)は、大兵力を持って曹操(そうそう)の
本拠地である許都を襲撃しようという計画を立てていきます。
当時の曹操(そうそう)は、袁紹(えんしょう)との戦いに忙しく、
余裕が無い状態であり、計画が隠密裏で進めば、もしかしての可能性はありました。
ところが、孫策(そんさく)の計画は、元の呉の領主である
許貢(きょこう)によって、曹操(そうそう)に密告されてしまったのです。
「おいおい、危ねえ、危ねえ、、孫策の野郎、そんな事を考えて
いやがったのか、、」
曹操(そうそう)は、孫策(そんさく)の計画を知ると、
許都の守りを固めてしまいました。
孫策(そんさく)は、許貢(きょこう)が秘密を漏らした事を知って、
激怒して、これを殺してしまいます。
正史の記録の許貢(きょこう)
正史の記録によると、許貢(きょこう)は、曹操(そうそう)に対して、
「孫策は、楚の覇王、項羽(こうう)に似て自信過剰で危険な野心家です。
是非とも、勅命によって都に招聘して身分を与えて飼い殺しにすべきで、
江南に放置しておくと、とんでもない禍いを招くでしょう。」
という孫策(そんさく)を警戒せよという内容の手紙を書いたとされています。
その手紙は、孫策(そんさく)の配下によって確保されて
孫策(そんさく)に露見してしまい
許貢(きょこう)は「この手紙は自分が書いたものではない」と強弁しましたが、
許されず、絞首刑に処されたとされています。
が、話はこれで終わりませんでした。
許貢(きょこう)には、彼が世話している何名かの食客が存在したのです。
食客とは、衣食住の世話を見てもらう代りに、主君の雑用をこなす
人々の事で、多くが任侠の徒だったようです。
食客は孫策を討つことを決意する
許貢(きょこう)が殺された事を知った、その食客は、
どうしても仇を討つと、仲間と3名で、孫策(そんさく)をつけ狙い、
とうとう、孫策(そんさく)が狩りに出て、一人の時を見計らい、襲いかかりました。
孫策(そんさく)は、これら3名を一人で斬り殺してしまいます。
が、死ぬ寸前に1人が放った矢が孫策(そんさく)の頬を貫通してしまうのです。
傷は、死にいたる程ではありませんでしたが、
顔に出来た傷は、ハンサムで知られた孫策(そんさく)の容貌を著しく悪くしました。
孫策(そんさく)の頬に傷
孫策(そんさく)は、包帯を取り外して見えた頬の醜い傷を見るなり、
「なんという事だ、このような無様な姿になっては、
天下に覇を唱える事は、もはや叶わぬ!!」
と絶叫し、その瞬間に頬の傷が開いて大量の出血を起こしたと伝承では言われています。
孫策・後継者を孫権(そんけん)に委ねる
以後、孫策(そんさく)の容態は日に日に悪くなり、死は避けられない運びになります。
死期を悟った孫策(そんさく)は、息子ではなく、
弟の孫権(そんけん)を枕元に呼び、自分に代わって呉の政治を見るように告げ、
26年の生涯を閉じました。
孫策の人生
通常、一国の主ともなれば、身辺に恨みを買うものですから、
警戒を厳重にし、一人にはならないのが普通です。
ところが、この孫策(そんさく)は、きままな所があり、覇者となり、
数万の軍勢を有する立場になっても少数の部下と狩りに行ったり
チキンレースのように許都に近い所で野営したりとリスクを軽視する傾向がありました。
正史には、劉繇(りゅうよう)の配下であった太史慈(たいしじ)と
狩りの最中に出会い、挑発に応じて、一騎打ちをして引き分けたという逸話まであります。
ここで負けていたら、後の呉は無かったのですから、孫策(そんさく)の
ワガママ気ままは、天性のモノだったのでしょう。
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