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曹操の詩の世界を体験してみよう

2015年5月8日


 

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曹操 詩

 

三国志を代表する英雄のひとり、曹操孟徳(そうそうもうとく)

 

軍事・政治の才に秀でていたことは言うまでもありませんが、

一方で彼は音楽と文学を愛する粋人でもありました。

 

曹操

 

特に詩の分野では同時代の文人達を擁護する一方、

自分自身も数多くの詩を残し、文学の一時代を築いています。

 

詩人としての曹操は、いったいどのような作品を残しているのでしょうか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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建安文学の三曹七子

曹丕 曹植

 

曹操が後漢王朝(ごかんおうちょう)最後の皇帝である献帝(献帝)を迎えた年(西暦196年)から、

曹操の息子で彼の後継者である曹丕(そうひ)が献帝から皇帝の地位の禅譲(ぜんじょう)を受け、

(ぎ)を建国した年(西暦220年)までの元号を「建安(けんあん)」といいます。

 

曹操

 

この時代、それまで詩の主流であった「辞賦(じふ)」という様式に変わる新しい様式の詩が生まれていました。

 

それはもともと「楽府(がくふ)」と呼ばれた歌謡を文学として昇華させたもので、

形式的であった辞賦に比べて型にとらわれない自由な文調をその特徴としました。

 

荀攸と曹操

 

自ら詩と音楽を愛好した曹操は、同時代の優れた文人・詩人たちを擁護、彼らは戦乱の悲哀や不安といった

思いを力強く歌う、多くの名作を残しました。この時代の詩文学を「建安文学」と呼びます。

 

腐れ儒者気質な孔融

 

特に建安文学を代表する孔融(こうゆう)・陳琳(ちんりん)・徐幹(じょかん)・王粲(おうさん)・応瑒(おうとう)・劉楨(りゅうてい)・阮瑀(げんう)の七人を総称して『建安の七子(けんあんのしちし)と呼びます。

 

曹植

 

また、建安文学を擁護した権力者であり、自らもまた一流の詩人として知られた曹一族、曹操・曹丕・曹植(そうしょく)の

三人を加えて「建安の三曹七子」(けんあんのさんそうしちし)と呼ぶこともあります。

 

 

曹操の残した代表的な2つの作品を紹介しましょう。

 

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短歌行|実は人材募集の歌だった

曹操は関羽をGET

 

曹操の代表作と言われるのが『短歌行(たんかこう)』です。

 

全32行からなる詩文で、その有名な歌い出しはこのような文章になっています。

 

 

(原文)

対酒当歌  人生幾何

譬如朝露  去日苦多

慨当以慷  幽思難忘

何以解憂  唯有杜康

 

酒におぼれてしまった曹植

 

(書き下し文)

酒に対しては当に歌うべし、人生幾何ぞ

譬(たとえ)ば朝露の如し、去りし日は苦(はなは)だ多く

慨して当に以て慷すべし、幽思は忘れ難く

何を以て憂いを解かん、唯だ杜康 有るのみ

 

お酒 三国志 曹操

 

「酒を飲むときは大いに歌おうじゃないか? 人生は朝露のようにはかないものだ。

過ぎてしまった多くの日々を思うと悲嘆な思いにかられてしまう。その憂さを晴らすことができるのは酒だけだ」

 

赤壁の戦い

 

三国志演義には赤壁の戦いを控え、船上で酒宴を開いた曹操が即興でこの詩を歌う場面があります。実際に曹操がこの詩を詠んだ時期は不明で、三国志演義の描写には反論があるのも確かです。

 

赤壁の戦いで敗北する曹操

 

しかし、赤壁の戦いのあった年、曹操はすでに50歳を過ぎていました。

現代よりもずっと寿命の短かったこの時代にその歳を迎えた曹操が、過ぎた日々を思い返して感嘆する気持ちも理解できるような気がします。

 

 

この後、詩は優秀な人材と出会えることを喜ぶ曹操の心情を詠っていきます。

 

 

青青子衿  悠悠我心

但為君故  沈吟至今

 

青青たる子が衿、悠悠たる我が心

但だ君が為の故、沈吟し今に至る

 

 

「君の青々とした襟を見て、私はとても悠々とした気分だ。

私はただ君のために、こうして歌っている」

 

曹操

 

……曹操は『短歌行』の中で、食べていた食事を吐き出して来客を迎えたという歴史上の偉人の故事まで例に上げ、

労苦を惜しまず優秀な人材と出会いたい、その気持ちを情熱的に歌いあげています。

 

さすが、人材収集マニアの面目躍如、といったところでしょうか?

 

苦寒行|決死の行軍だった烏桓征伐

親友に裏切られた曹操

 

赤壁の戦いの前年、曹操は北方の烏桓(うがん)族の支配する地に逃亡した宿敵袁紹(えんしょう)子、袁尚(えんしょう)と袁譚(えんたん)を討伐するため、北端の地へ進軍します。この進軍の様子を詠った24行からなる詩が『苦寒行』です。

 

その歌い出しはこのようになっています。

 

(原文)

北上太行山、艱哉何巍巍

羊腸阪詰屈、車輪爲之摧

樹木何蕭索、北風聲正悲

熊羆對我蹲、虎豹夾路啼

 

(書き下し文)

北のかた太行山に上る、艱(けわ)しきかな何ぞ巍巍たる

羊腸阪は詰屈(きつくつ)たり、車輪 之が爲に摧(くだ)く

樹木の何ぞ蕭索たる、北風の聲は正に悲し

熊羆は我に對して蹲(うずくま)り、虎豹は路を夾(はさ)んで啼く

 

曹操

 

行軍を阻む山は険しく、獣が跳梁跋扈し、寒さは厳しい。

兵糧も乏しく、兵士も馬も疲れ飢えてしまった……

 

烏桓征伐の進軍がどれほど厳しかったかを物語る、悲壮な詩です。

 

郭嘉が亡くなり悲しむ曹操

 

数年にわたる袁一族との戦いを制して曹操は覇権を手にしましたが、同時に長年の戦いは彼の軍を疲弊させました。

この間に曹操は優秀な軍師であった郭嘉(かくか)を病で亡くしています。

 

曹操と郭嘉

 

曹操自身も、この烏桓への行軍で健康を害したとも言われ、赤壁での敗北以降の彼が精彩を欠いているのも、

この時健康を損ねたことが原因であるともされています。

 

苦寒行』は、そんな曹操の思いを垣間見ることのできる詩と言えるでしょう。

 

 

天から二物も三物も受け取った曹操。

 

軍事や政治のみならず、文学者としても後世にその名を残し、高く評価されている曹操。

『天は二物を与えず』(神様は一人の人間にいくつもの才能を与えたりはしない)

 

曹操

 

とはよく言われますが、どうも曹操は天から二物どころか三物以上のものを受け取っているようです。

 

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