三国一のヨイショ男、曹操の部下の褒め方が半端ない

2015年9月3日


曹操 ほめ上手

三国志演義では、劉備(りゅうび)の冷酷なライバルとして、

恐怖と規律で部下を統率していたかのように見える乱世の奸雄曹操(そうそう)、、

しかし、現実の彼は、部下を褒めて褒めて褒め倒す三国一のヨイショ男でした。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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領地と官位を持たない曹操が頼ったのはヨイショの腕だった

曹嵩

 

曹操の父は、金持ちの曹嵩(そうすう)でしたが曹操自身の地位は

後漢の近衛隊長程度で袁紹(えんしょう)のような名門でもなければ、

公孫瓚(こうそんさん)のように地盤を持っているという訳でもありませんでした。

 

反董卓連合軍として挙兵した時も父に泣きついてお金を出してもらい、

そのお金でようやく兵力を整えたというのが実情です。

 

そこで、曹操は元手が要らず無限に使える舌先三寸で、とにかく

相手を褒めまくって部下にしようとしました。

 

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曹操、袁紹の同族、袁遺(えんい)をヨイショ

曹操 ヨイショ

 

袁遺は袁紹の従兄弟とされていますが、三国志では、反董卓連合軍に参加したものの

ろくろく戦いもしないで酒宴をしていたとして曹操に叱られています。

 

が、その半面、曹操は袁遺をこのように言ってヨイショしています。

 

曹操「大人になっても、飽きずに勉強をしているのは、袁遺とこの私だけだなぁ」

 

当の袁遺は袁紹により、楊州刺史に任命されていますが、

袁術(えんじゅつ)と袁紹が抗争し袁遺は敗走、いい所など何もなく、

逃亡中に部下に見限られ殺されます。

 

どうも、この体たらくを見ると、曹操は袁遺の気を引こうと思って、

大袈裟に袁遺を褒めたように見えます。

だって、どう考えても袁遺が曹操に並ぶ程に勉強しているようには見えませんからね。

 

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曹操、典韋(てんい)の怪力を褒めたたえてヨイショ

典韋 悪来

 

典韋(てんい)は曹操のボディ―ガードですが、三国志演義では、黄巾賊の残党である

何儀(かぎ)を捕えようとして、許褚(きょちょ)と手柄を争うシーンがあります。

その時にみせた典韋のあまりの怪力ぶりに曹操は感激して、

 

曹操「おお!古の悪来(あくらい)のようではないか!」

 

と典韋をヨイショします。

 

悪来は(いん)の紂王(ちゅう・おう)に仕えた怪力無双の豪傑でした。

典韋が悪来を知っていたかどうかは分かりませんが、

古の怪力の豪傑と並べられて悪い気はしなかったでしょう。

 

曹操、荀彧(じゅんいく)を迎えて、嬉しさのあまりのヨイショ

荀彧 立ちノーマル

 

荀彧は、最初袁紹に仕えようと考えていましたが、見かけ倒しの

その小物ぶりを見て考えを変えます。

その頃、曹操は奮武将軍として袁紹の客将扱いで東郡にいましたが、

荀彧は曹操と話して非凡な人物だと確信し、その配下になりました。

 

その時に曹操は、荀彧をこうヨイショしました。

 

曹操「おお!わが子房(しぼう)がやってきたぞ」

 

子房とは漢の高祖劉邦(りゅうほう)の軍師であった張良(ちょうりょう)子房の事です。

荀彧がいれば天下が取れると暗に最大限のヨイショをしています。

 

荀彧程の人ですから、それをそのまま真に受けはしなかったでしょうが、

天下の名軍師と並べられて悪い気はしなかったでしょう。

 

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曹操、郭嘉(かくか)を手に入れた時と失った時のヨイショ

曹操 ヨイショ

曹操は、先に幕僚に加えた荀彧から郭嘉を推薦されます。

引見してみるや、その先を見通す洞察力に驚いて、こうヨイショしました。

 

曹操「わしの大業を成就させてくれるのは、この男を置いて他にない!」

一方の郭嘉も私が仕えるべき真の主君は曹操様だと言っています。

 

以後、郭嘉は曹操の軍師として、幾多の手柄を立てますが、

烏丸(うがん)討伐に従軍して無理が祟り西暦207年38歳でこの世を去ります。

 

葬儀に際して、曹操は郭嘉の死をとても残念がり荀攸(じゅんゆう)達に向かい言います。

 

曹操「諸君とワシは同年代、郭嘉だけが飛びぬけて若かった、、

天下統一が成った暁には、ワシは後事を郭嘉に託すつもりであった」

 

若き天才を失った曹操が最後に放った最大限のヨイショでした。

 

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戦国日本にもいたヨイショの達人 豊臣秀吉

 

このようなヨイショの天才は、中国ばかりではなく日本にもいます。

ひとたらしの天才として有名な太閤秀吉です。

 

秀吉も、舌先三寸で人を褒めてヨイショするのが上手な人物でした。

彼の軍師として天下取りに大きな貢献をした黒田官兵衛などは、

毎回、毎回、領地を増やすという証文を受け取りながら、

まるで守られず、山のような空証文を先輩の竹中半兵衛に見せて、

愚痴った事もある位です。

 

それでも恨まれずに、部下が手柄を立ててくれるのですから、

秀吉には天性の人に好かれる魅力があったのでしょう。

 

 

曹操は口先だけではなく、本気でヨイショしている

曹操躍進

 

こうして見ると、「俺だって部下は褒めてるけどなー」

と苦笑いする管理職の方もいるかも知れません。

 

「曹操みたいには上手くヨイショできないよなー」

と思う方もいるかも知れません。

 

でも、大事なのは褒め方の巧拙ではなく、

いかに本気でヨイショしているか?という事ではないかと思います。

曹操は、相手をヨイショする時には、その人を本当に

古の人物に相当すると信じて、本気でヨイショをしています。

 

「こう言えば、喜ぶんじゃね?」的な浅ましい考えではないのです。

曹操が本気だから、言われた方も、話半分では受け取らず、

 

「そこまで見込んでもらえたなら期待に応えて必死で頑張ろう」

 

そう思えたのだろうと思います。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

無料であると分かっていても、人というのはプライドが邪魔して、

中々人をヨイショできないのが実情です。

そうでなくても白々しいと思われないか?と気遅れして、

ヨイショすべき時に沈黙してしまうという経験がある方もいるでしょう。

 

でも実際には、ヨイショだと分かっていても褒めてもらえると

人は嬉しいものでいつも以上の力を出すものです。

 

だから、kawausoにも激励のメールを下さいね♡

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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