109話:曹丕が献帝を廃し魏を建国

2015年8月7日


曹操 魏王

 

西暦219年、曹操(そうそう)から王位を引き継いだ曹丕(そうひ)は、

それだけでは満足せず曹操が、最期まで手を付けなかった

皇帝の位へのあくなき執念を見せます。

 

もっとも、曹操は、皇帝の位を想定していなかったのではなく、

「自分は漢の禄を食んだのだから、皇帝の位までは望まない」

と漢の臣であった事を理由にして、帝位までは奪わなかっただけでした。

 

しかし、曹丕が皇帝の位を奪うと言っても、それは献帝(けんてい)に、

「おら帝位を寄こせ」と言って成立するものではありません。

 

前回記事:108話:三国志を牽引した風雲児曹操、志半ばで死ぬ

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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曹丕はどうやって献帝から帝位を譲ってもらったの?

怒る 献帝

 

曹丕は、「あくまでも献帝が自ら帝位を自分に譲るというから、

仕方なく皇位に就く」という儀式を強制しました。

 

いわゆる禅譲という方式で、これにより献帝は、何度も、

曹丕に譲位を願い出ては、曹丕に「とんでもございません」

拒否されるという、手間ヒマが掛かる茶番を繰り返す事になります。

 

献帝:「帝位を奪うなら、早く奪え、どこまで曹丕は朕に恥をかかすのか」

 

献帝は、おそらくこのような不満を抱えながら、18回を数えた

禅譲の茶番劇に付き合う羽目になりました。

 

しかし、ここでも、漢室の誇りを貫いた女性がいました。

それは意外にも、献帝の皇后であった献穆曹(けんぼくそう)皇后です。

 

献穆曹皇后と献帝の複雑な出会い

 

献帝の前の皇后の伏皇后は、父、伏完が曹操暗殺を図った事で、

連座して罪に問われ、献帝の目の前で殺されました。

 

曹操は、その後、自分の娘である曹節(そうせつ)を献帝に嫁がせて、

献穆曹皇后と名乗らせていたのです。

 

関連記事:ブチ切れる献帝、曹操暗殺を指示

 

献穆曹皇后(曹節)は兄・曹丕に抵抗した

 

政略結婚であった筈ですが、曹皇后は誇り高い女性であり、

後漢の皇后の立場を優先して、献帝から皇帝の位を取り上げようとする

兄、曹丕に抵抗しました。

 

曹皇后は、兄である曹丕が、何度も使者を立て玉璽を取り上げようと

した時にも、しっかりと玉璽を握りしめて使者を詰り、

玉璽を渡そうとはしないで頑張りました。

 

ですが、ここは魏の領域のド真ん中、献帝の家臣とて、

もう曹丕に逆らう意気地は微塵もありません。

 

そのようなやり取りが数度続いた結果、曹皇后は疲れ果ててしまいました。

「私がこのまま意地を張り続けたら、兄は、私にも帝にも容赦はしますまい」

 

曹皇后は、そう言って使者に玉璽を投げつけて渡し、

「ああ、私達は天に祝福されていないのか・・」と嘆き悲しみました。

 

この時、その場にいた家臣達は、余りの恥ずかしさに顔を上げる事も

出来なかったと記録されています。

 

後漢時代が遂に終わる

曹丕皇帝

 

献帝は皇帝の位を追われて、山陽公に格下げになりました。

西暦220年、これを持って、後漢の200年以上の歴史に終止符が

打たれる事になりました。

 

曹丕はここに初代皇帝に即位し、魏の文帝になります。

 

関連記事:三国志怪奇談「曹丕、受禅台の怪」

 

曹丕は本当に献帝を暗殺したの?

 

三国志演義では、献帝はこの後、新しい任地に赴く途中で、

曹丕の放った刺客に殺された事になっていますが、

これは、後に皇帝を名乗る劉備へ繋げる為の伏線であり、

実際は、その後も生き続け、西暦234年に死去しました。

 

曹皇后は、献帝の死後も生き、西暦260年、曹氏の天下が

司馬氏に奪われるのを見つつ、亡くなりました。

 

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次回記事:110話:関羽の悲報に復讐に燃える劉備

 

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歴史ライターとして、仕事をし紙の本を出して大当たりし印税で食べるのが夢です。

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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