夏侯 惇元譲(かこうとん・げんじょう)は曹操(そうそう)の従兄弟であり、その挙兵から死ぬまでを曹操と共に過ごした子飼いの武将です。
しかし、片目の猛将としては、あまりに有名な夏候惇の生涯というのは、案外にも知られていません。曹操が最も信頼し絶大な信頼を寄せたとはどういう事なのか?
夏候惇を解剖していきます。
この記事の目次
実は短気な乱暴者、14歳で人を殺す
夏侯惇は、沛国礁県の産まれです、キングダムに、やや掛かるかも知れない前漢の建国者劉邦(りゅうほう)の馬車の運転手の夏候嬰(かこうえい)が先祖だと言われます。
この夏候嬰は、劉邦の命を預かる御者として一度も背かずに、劉邦と人生を共にしますがその子孫の夏候惇と曹操の関係も良く似てます。さて、夏候惇ですが若い頃から気性が荒く、14歳にして、自分の学問の師を侮辱した男を殺害してしまいます。まだ漢が乱れていない頃なので、お尋ね者になる筈ですが、その頃、夏候惇がどうしていたのか分かる資料はありません。
もしかしたら、親戚の不祥事として曹操の父の曹嵩(そうすう)がお金で何とかしたか、、曹操が動いたのか、、
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曹操の部下として頭角を現す
さて、西暦184年、曹操が黄巾の乱の鎮圧で手柄を立てる頃には夏侯惇は、その軍の一武将として参加するようになります。西暦190年になり、曹操が奮武将軍を自称して董卓軍と戦う頃には、夏侯惇は司馬(軍内の規律を監督する憲兵隊長)になります。ここで、軍内の規律を監督する仕事を任されたのが夏候惇の特徴です。ほかの将軍のように前線に立つ役割ではないようです。
曹操、董卓軍の徐栄に敗れて、夏侯惇とえっちらおっちら兵集め
曹操は、反董卓連合軍での自分の知名度を上げようと焦り過ぎ、董卓軍の将軍の徐栄(じょえい)と戦い大敗北します。結果、多くの兵を失った曹操軍の兵力が不足したので、「おい元譲、兵集めにいくど!」と曹操と夏候惇は、はるばる揚州まで兵を募集しにいきます。
この時は、曹操の人物を見込んだ、丹陽太守の周昕(しゅうきん)と揚州刺史の陳温(ちんおん)が協力してくれ、1万という兵力が集まります。しかし、途中で反乱が起こり大半はいなくなりました。(笑)
兵集めという地味な仕事を曹操と二人三脚でえっちらおっちらやっていた夏候惇の姿は想像するとオカシイです。
曹操「駄目だ、、だーれもこねえや」
夏侯惇「俺達、、人気ないンスね」
曹操「あっち行ってみっか、、よっ!そこのガタイのいい兄ちゃん。もしや、俺の樊噲(はんかい)じゃないか?なんちて ウヒョ!」
曹操、兗州牧に就任、別軍を率いる夏侯惇
ついてない曹操ですが、青州黄巾賊により、兗州刺史の劉岱(りゅうたい)が殺されると棚ボタ的に鮑信(ほうしん)などの後援を得て事実上の兗州刺史になります。ここから、曹操は青雲を掴んで天下に向かって邁進していきます。
この頃には、夏侯惇は白馬に駐屯して別軍を率いるようになり、折衝校尉、東郡太守に任命されます。夏侯惇が、曹操の配下ではなく、別個に一軍を率いるに値すると曹操が認めていた証で曹操にとって夏侯惇は自分の分身のようでした。
兗州大反乱、夏侯惇呂布に捕まる大ピンチ
曹操は徐州の陶謙(とうけん)とのイザコザから複数回徐州に遠征します。夏侯惇は、その背後を守り、濮陽に入城しました。しかし、その隙をついて、曹操の軍師だった陳宮(ちんきゅう)と親友の張邈(ちょうばく)が寝返り、呂布(りょふ)を引き入れた上に、兗州の諸候が殆ど離反します。
夏侯惇は鄄(けん)城の曹操の家族を守ろうと、濮陽から軽騎兵を連れて出撃して呂布の本隊に遭遇します。呂布は、直接対戦を避けて濮陽に入城し夏侯惇の輸送隊を襲い食糧を奪いさらに計略を使い夏候惇を捕えます。間抜けな事に捕まった夏侯惇に軍は動揺しますが、夏侯惇軍には勇者である韓浩(かんこう)がいました。韓浩は臨時に指揮官を引き継ぐと、動揺を鎮めて、夏侯惇を人質に取った呂布の部隊に襲いかかります。
韓浩「大将!あんた1人の為に軍を崩壊させるわけにはいかぬ、すまないが、ここで死んでくれ!!」
呂布軍の部隊長は、人質が効果なしなのを知ってビビってしまい、夏侯惇を返して命乞いをしますが、韓浩は、容赦なくこれを斬り捨てました。危ない所で韓浩にピンチを救われた夏候惇は、これを激賞したと言います。
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呂布軍との戦いで左目を失う
やがて、慌てて戻ってきた曹操と合流して夏侯惇は呂布と戦いますが、敵将の高順と一騎打ちして破り、これを追い詰めている最中、高順の部下の曹性に左目を射られてしまいます。
夏侯惇は、目から矢を引きぬくと、一緒に左目も抜けました。
「親からもらった体だ、捨てるわけにはいかぬ!」
夏侯惇は気合い一発、左目を食べると、目の仇、曹性の顔を槍で貫いて殺しました。ただし、正史では左目を「食べた」とは書かれていません。
盲夏候とあだ名され、鏡を割りまくる
左目を失った夏候惇は、同族の夏候淵(かこうえん)と区別する為に、盲夏候(もうかこう)と言われるようになります。ところが、本人はこのあだ名が大嫌いで呼ばれると不機嫌になりまた鏡で自分の左目を見ては「キーッ!」と癇癪を起して鏡を全て割っていました、おお、白雪姫の継母のようです。
内政に力を入れる夏侯惇
その後の夏侯惇は、陳留太守、済陰太守と歴任、内政面で力を発揮します。治水工事では、自分で土砂を運んでみせて率先して働きました。西暦199年には、袁紹との戦いを決意した曹操の後詰として、荊州の劉表を牽制する役割を果たします。
博望坡で劉備に完敗、その時、夏侯惇は?
劉表(りゅうひょう)の命を受けた劉備(りゅうび)が、曹操が袁紹との戦いで忙しい時を狙い、葉(しょう)を攻めると、李典(りてん)と共に夏侯惇は出撃しますが、「伏兵がいるかも知れないので深追いはいけません」という李典の忠告を無視そのまま火攻めにあい惨敗します。
※孔明の大手柄の博望坡の戦いは、この戦いがモデル夏侯惇は、死刑を覚悟して自分の体を縄で縛り曹操の前に出ます。しかし、曹操は夏侯惇の覚悟に感心して「手柄を立てて罪を償え」と逆に励ましました。
曹操の寝室に出入りを許された夏侯惇の最期
夏侯惇は戦の度に手柄を立て、遂には曹操の寝室に自由に出入りしても構わないという家族同然の待遇を受けます。また、曹操は夏侯惇に魏の官位は一つも与えていませんでした。それは、自身と夏侯惇は漢の家臣として対等という「不臣の礼」を実践したもので、曹操は夏侯惇を仲間として遇していたのです。西暦220年、正月、曹操は病を得て亡くなりますが、その傍らには夏侯惇がいたのだと言われます。
夏侯惇は長年、不臣の礼は畏れ多いとして魏の官位を求めていましたが曹丕(そうひ)が即位すると同年3月魏の大将軍に任命されます。ですが、そのたった1カ月後、曹操の死から僅か4ヶ月で夏侯惇は病に倒れて亡くなります。まさに曹操の分身に相応しい最期まで曹操に忠義を尽くした人生でした。
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