李典曼成(りてんまんせい)は魏将です、生没年不詳ですが、三国志ファンの中ではアーケードゲームの天地を喰らうで有名な「敵将李典討ち取ったりー」の音声から討ち取られた方。あるいは、主将にアドバイスをする永遠の副官として知られます。キングダムで言えば、騰の位置にある李典の生涯をはじさんではメインとして追ってみます。
この記事の目次
若い頃から学問好きな李典
李典は、若い頃は武芸より学問が好きな物静かな青年でした。関羽(かんう)と同じように、春秋左氏伝を愛読し、また数々の書物に通じていて文武両道の博識な武将に成長します。曹操(そうそう)は、李典を政治家向きと考えて、人民を統治する職につけてみた事もあると伝えられています。
従父、李乾が曹操軍に加入して手柄を立てる
西暦190年、曹操が董卓(とうたく)討伐の兵を挙げると、李典の父の兄弟である李乾(りかん)が曹操に応じて挙兵しました。李乾は、配下に三千名の食客を抱える任侠の人物であり、曹操の下で袁術(えんじゅつ)戦、徐州討伐戦で手柄を立てまた曹操も李乾を重く用いています。
従父 李乾、呂布の配下に殺される
そんな折、兗州で呂布(りょふ)が反乱を起します、曹操は李乾の故郷である乗氏県の動揺を鎮める為に李乾を派遣しますが、ここに呂布の配下である薛蘭(せつらん)・李封(りふう)がやってきて呂布に降るように李乾を説得します。しかし、任侠の徒である信義に厚い李乾は、これを拒否したので、薛蘭・李封に殺害されました。
呂布に従父を殺され、李典は激しい恨みを持つ
父の代わりだった李乾を李典は慕っていたようで、この時に、李乾を殺された事で呂布の一派を激しく恨むようになります。張遼(ちょうりょう)は、この頃呂布の配下で、別に李乾殺害には関係していないのですが、このような経緯から李典は張遼を恨んでいました。それは遥かに後年の合肥の戦いまで尾を引く事になります。
李整が死に、李典が軍勢を率いる!
曹操は、李乾の死に激怒して、息子の李整(りせい)を引き継いで将軍にし乗氏県に他の将軍と共に派遣します。この李整も有能で、父を殺した薛蘭・李封を追い詰めて、西暦195年に殺害、父の仇を討っています。李典も、この戦いに参戦していますが、これが初陣のようです。李整は手柄を立てて、青州刺史にまでなりますが間もなく病没し、曹操は李典を指名して、軍を引き継ぎさせました。
時には独断専行、しかし結果は残す有能な李典
官渡の戦いが始まると、李典は一族を引きつれてやってきて、食糧に乏しい曹操軍に絹や食糧を補給しました。曹操は、これを喜び李典を稗将軍に任命します。曹操が袁紹(えんしょう)を破ると、後継者の袁尚(えんしょう)と袁譚(えんたん)を黎陽(れいよう)に攻撃しますが、この時に李典は、程昱(ていいく)と共に、食糧輸送係をしました。
曹操は、袁兄弟が、水止めで糧道を断つであろうと考えて、その場合には無理をしないで陸路を行けと命じます。案の定、袁尚は、魏郡太守の高蕃(こうばん)に命令して水路を遮断しますが李典は、程昱と相談して戦況を見極めると、高蕃を急襲して破り水路を回復させました。曹操の言いつけ通りではなく、勝機があれば独断専行も辞さないのが李典の持ち味なのです。
博望坡で夏候惇を諌める、沈着冷静な副官
曹操が袁紹と戦っている最中、後詰めの夏候惇(かこうとん)と共に、李典は、劉表(りゅうひょう)を頼った劉備(りゅうび)の急襲を葉(しょう)で迎撃します。しかし、夏候惇は勝ちを急いで、退却した劉備を追い掛けます。そこで李典は劉備の動きがオカシイと察知して伏兵を疑い、夏候惇に自重を促しますが夏候惇は聴かずに敗北しました。李典は即座に兵を連れて救援に向かい夏候惇を救出しています。このような冷静な李典は、三国志演義にも見られますが、虚構ではなく、実在の李典の反映なのです。
私情を捨てて張遼を許し、呉に立ち向かい勝利
西暦215年、合肥城には、李典と張遼、楽進(がくしん)がいました。この3名は、間に人が入らないとスムーズに仕事が出来ない程に仲が悪かったのですが、そこに10万の呉軍が攻めてきます。合肥の魏軍は、7千名と10分の1以下です。曹操は漢中攻略の戦争に出ていて援軍が来る目当てはありません。そこで、張遼は撃って出て、士気を高めようとしますが、李典は、従父を殺された経緯から張遼を恨んで応じません。
「お主が俺を恨むのは勝手よ、しかし、今は国の存亡の時だ、私情を優先して大事を忘れていいのか?」
李典は、張遼の言葉に深く愧じ入り、ひざまずいて共に出撃する事を約束します。二人は、決死の覚悟の800名の魏兵を率いて奮戦して、ついに呉の軍勢を撃ち破りました。
李典、36歳の若すぎる死・・・
李典は、合肥の戦いの後、間もなく亡くなっています。たった36歳という若すぎる死でした。李典は学問を好み、同僚と手柄を争う事もなく、淡々と職務をこなし、人物も謙虚だったので誰からも好かれました。癖の強い魏軍には、俺が!俺が!武将は多いのですが、李典はその中でも異彩を放ち、相手を立てて補佐に徹します。
李典はよく別の武将と組まされていますが、トラブルを起さず最期には、従父を殺した呂布の一派として恨んでいた張遼とさえ和解するなど、大人な対応が見られます。早く死んでいなければ、必ず大将軍として魏を引っ張る存在になっていったでしょう、早死には残念ですね。