25人もの息子に恵まれた曹操(そうそう)と違って、
劉備(りゅうび)には、実子は長男の劉禅(りゅうぜん)を含めて3人しかいません。
(劉封は養子ですので、ここには含まないとします)
子供が少ないのは、無理もありません。
劉備は長らく本拠地を持たずにさまよっていました。
安定して妻を持ち、子育てに励める環境ではなかったのです。
劉備の妻として名を残しているのは、
糜(び)夫人、甘(かん)夫人、孫夫人、呉夫人の
たった4人しかいないのですから。
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長男:劉禅(りゅうぜん)
・字:公嗣(こうし)
・生没年:207年~271年
甘夫人の息子で、劉備の跡取り息子。
劉備の死後、263年に魏に降伏するまで
長らく蜀の皇帝位についていました。
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次男:劉永(りゅうえい)
・字:公寿(こうじゅ)
・生没年:?~?
劉禅の異母弟で、母親は不明。
兄の劉禅が、宦官の黄皓(こうこう)を寵愛した際
それをいさめたことで遠ざけられました。
三男:劉理(りゅうり)
・字:奉孝(ほうこう)
・生没年:?~244年
劉禅の異母弟で、母親は不明。
劉禅により、安平王に封じられましたが、244年に病死します。
劉備のあとをついだ劉禅のことはおいておき、
次男劉永と、三男劉理についてですが。
どちらも、母が不明というのはいったいどういういうことでしょうか?
劉永と劉理の母親は?
繰り返しますが、劉備には
糜夫人、甘夫人、孫夫人、呉夫人の4人の妻がいました。
この4人の中で、
糜夫人と甘夫人は、劉備の若かりし頃から連れ添っていた妻です。
しかし、ふたりとも
劉備の晴れ姿を見ることなく、貧乏苦労暮らしをしていた時代に
亡くなってしまいます。
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甘夫人が亡くなったのはいつ?
甘夫人は死の直前に長男劉禅を生みました。
ですので、次男、三男である劉永と劉理は、もちろんのこと
糜夫人の子でも甘夫人の子でもありません。
政治絡みで結婚した劉備と孫尚香
甘夫人の死後、劉備のもとに嫁いでやって来たのは、
呉の孫権の妹、孫夫人。
孫尚香(そんしょうこう)の名で知られる女性でした。
孫夫人と劉備との仲は良好でしたが、
時が悪く、劉備と孫権との関係が悪化したために、
孫夫人は郷里に呼び戻されることになります。
このとき、孫夫人は、幼い劉禅を人質にとって呉に帰ろうとするのです。
もし、孫夫人が劉備の子供を生んでいたり、身ごもっていたとしたら、
この行動はまったくの意味不明のものになります。
連れて帰るなら、自分の子供にしますから。
ですから、劉永と劉理はもちろん、孫夫人の子供ではありません。
では、最後の妻、呉夫人の子供なのかと言いますと……。
呉夫人は、221年、劉備が皇帝として即位をしたときに
皇后位を与えられます。
そうなると、もしも劉永と劉理が呉夫人の子供だとするならば、
劉禅よりも嫡子として強い立場となり、
母が不明のまま歴史書に記されるわけもありません。
そういうわけで、呉夫人の子供でもないのです。
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劉永と劉理の母親の結論
つまり結論。
劉備は4人しか妻がいないといいながら、
実はどこの誰ともわからない妾がいました。
劉永と劉理は母が違うといいますから、
妾はひとりではなく複数です。
しかも、生年が不明。
これは……まさか、城市(まち)でちょっとその辺の女性に
声をかけて、生ませたのでは!?
「ちょっと、陛下、この子はあの時の子ですよ!
ちゃんと認知してくださいな」
城下から、子供を連れた女性がやってきて、そんなふうに詰め寄る姿が
想像できてしまうのですが。(注:私の妄想です)
劉備くん、やりますね。
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通称「はじさん」のはじっこライター東方明珠です。
普段は恋愛系のノベルやシナリオを書いています。