西条秀樹の傷だらけのローラや、傷だらけの天使など、傷だらけという言葉には凄みだけでなく、何かを守る一途さを感じさせられます。三国一、地味と言われる呉、しかもその中でも、じみじみ武将と呼べる周泰(しゅうたい)も、そんな傷だらけの武将でした。孫権(そんけん)に重んじられ、涙を流して感謝された周泰の人生を追います。
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孫策(そんさく)に見出されるも、孫権の願いで孫権お付きの武将に
周泰の生没年は不詳ですが九江(きゅうこう)郡、下蔡(かさい)の人と言われています。同僚の蒋欽(しょうきん)と共に当時勢力を伸ばしつつあった小覇王孫策の下で仕えます。孫策の弟である孫権は、何故か、周泰を気に入り自分の配下に欲しいと兄に言ったので、孫策は周泰を孫権付きの武将にします。
孫策、六県の山越討伐に赴き、留守を守る孫権にピンチが
孫策は、呉特有の山だらけの地形の為に非常に数が多い山越のような異民族討伐を繰り返していました。孫権は、この孫策の後ろを守って宣城にいましたが、兵力は少ないのに、孫策が押し気味に戦っているので油断していました。そこに山越軍の別働隊が奇襲を掛けてきました。手薄な上に油断していた呉軍は追い散らされ孫権もあわや討ち取られるという所まで追い詰められてしまいます。
周泰、人に倍する勇気を奮い山越を追い払う
その時に味方を励まし、孫権を守ったのが周泰でした。山越の軍勢を払いのける為に、敵軍に突撃した周泰は、全身に12箇所という深手を負いながら奮戦を続けました。劣勢の呉軍は周泰の姿に勇気づけられ、ついに崩れなかったので山越軍は諦めて退却しました。
周泰、傷が深すぎて生死の境をさまよう
しかし、周泰は全身傷だらけになり、そのまま倒れてしまいます。そして、何日間も生死の境をさまよう人事不省の状態になります。幸いにして、周泰は回復し弟の命を救ったとして孫策にも賞賛され、回復後に春穀(しゅんこく)の県長に任命されました。
周泰、孫権時代にも大活躍
孫策が死に、孫権の時代になると周泰は、呉の前線部隊として大きな働きをするようになります。黄祖討伐や赤壁の戦いでも周瑜(しゅうゆ)や程普(ていふ)に従って、曹操軍を撃破して呉の躍進に大きな貢献をしました。
朱然(しゅぜん)と徐盛(じょせい)は周泰の指揮下に入るのを不満に・・
周泰は順調に手柄を積み重ねますが、元は同僚の朱然と徐盛は、その配下にされた事に難色を示し、周泰の命令を無視するなどしました。考えた孫権は宴を催すとして、朱然と徐盛、周泰を招きます。
孫権、いきなり周泰の服を脱がせて傷の解説を始める
そして、宴もたけなわになった頃、孫権は周泰を立たせていきなり服を脱がします。周泰の体は、歴戦によって傷だらけになっていました。孫権は、それら周泰の体の傷を、ひとつひとつ解説し、いかに周泰が戦場では、我が身を省みず、奮戦する男であるか力説します。こうして孫権は最後には涙を流し、
「今日の私があるのは、ただ、幼平(ようへい:周泰の字)がいたお陰である」
と感謝の言葉を述べたのです。
それを見た徐盛と朱然は態度を改め二度と周泰に背くような事は無くなったと言われています。
蜀漢との戦いにも意欲を燃やす周泰、その途中で死ぬ
呉が呂蒙(りょもう)や陸遜(りくそん)の活躍で関羽(かんう)を倒して荊州を手に入れると、周泰は、来るべき劉備の蜀漢との戦いにも意欲を燃やします。漢中太守、奮武(ふんぶ)将軍に任命され、陵陽候(りょうようこう)にまで昇りますが、黄武(こうぶ)年間(222年~229年)頃に死去しました。孫権は、昔、自分の命を救った周泰への恩義を忘れず天子の馬車の日よけの蓋を周泰に贈ったり、周泰を名ではなく字(あざな)で呼ぶなど目に見える形で厚遇をアピールしました。一方の周泰も、それでおごり高ぶる事なく終生武人として、孫権に仕え続けたのです。
三国志ライターkawausoの独り言
周泰と言えば、ゲームでも、使えない事はないけど、まあ平凡な能力であまり印象には残らない武将です。全身、傷だらけというのも、そこまで強くはなく、多くの反撃を受けたという一つの証明であるとも言えます。しかし、その勇気は並はずれ、また何としても主君に忠義を尽くすという心意気は見事で、孫権が生涯重く用いたのも分かる気がします。周泰の全ては、その体中の傷が物語っているのです。
今日も三国志の話題をご馳走様でした。
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