一時的に関羽(かんう)は曹操(そうそう)の元に投降することになった時期がありました。
前々から関羽の武勇に目をつけ、何としてでも自分の元に欲しかった曹操は大喜びします。
曹操は有能な人材とあれば、つい先ほどまで敵であった者でも厚遇で迎え入れる度量がある人物でした。
関羽の劉備への忠義心を表したエピソード
実際には『劉備の消息がわかったらすぐに曹操の元を立ち去る』という条件の元での一時的な投降でしたが、
待ちに待った関羽の投降に曹操は何としてでも完全に自分に心を向けて自らの家臣にしたいと、関羽にありとあらゆる贈り物をします。
献帝(けんてい)にも謁見させ、曹操の進言もあって偏将軍・寿亭候にも任命されたり。
その他様々な贈り物をするのですが、あまり喜びません。
曹操は関羽が古くなった服を着ていることに目をつけ、高価な錦で上等な衣を作り贈りました。
さっそく関羽はその衣を着ていたので曹操はちょっと喜ぶのですが・・・その上等な衣の下には元のボロボロの服を重ねて着ていたのです。
曹操がなぜかと尋ねると、「この服は劉備にもらった大切な服」だと言いのけます。
離れていても心は常に劉備の元にあり!という、関羽の厚い忠義心を示すエピソードですね。
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恩賜の御衣ってなに?
「劉備からもらった服」というように、主君から与えられた服の事を恩賜の御衣といいます。
何か手柄があった時や、主君からの信頼と情愛の証として衣を賜ることがありました。
もっとも古代において衣を作る絹などはとても高価な物で、そう何枚も持っているワケではありません。
褒美としての意味合いもあったのです。
いずれにしても恩賜の御衣を賜るという事は大変な名誉だったのですね。
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日本にも見られる恩賜の御衣
有名な所では無罪の罪で大宰府に流された菅原道真(すがわらのみちざね)が、
過去に帝から褒美として頂いた恩師の御衣を持ちながら、現在のわが身を憂う漢詩をよんでいます。
謀にあい僻地に流されましたが菅原道真も優秀な忠臣でした。
同じく平安時代に書かれた『源氏物語』でも須磨に流された光源氏が恩賜の御衣を抱きしめ、都をしのんで涙する・・・なんて場面が描かれています。
これは作者の紫式部が菅原道真のエピソード踏まえて作中に織り込んだエピソードと言われています。
すでに平安時代には日本でも恩賜の御衣という慣習が根付いていたようです。
三国志の恩賜の御衣のエピソード
関羽の忠義心エピソードの印象が強くて忘れそうになりますが、三国志では他にも恩賜の御衣が登場する重要な場面があります。
献帝が曹操暗殺の密勅を董承(とうしょう)の手に渡す場面にも、恩師の御衣が大活躍!
献帝はこれまでの董承の功を労うという形で、意味ありげに自ら着ていた衣と帯を下賜します。
当然臣下としては大変名誉なことなので董承はそれを受け取ります。
実はその帯の中には『曹操誅殺すべし』との密勅が隠されていました。
勘の鋭い曹操に衣と帯を調べられ奪われそうになりますが、皇帝が忠臣に衣を下賜するのは珍しいことではありません。
恩賜の御衣は他の人にあげるわけにいかないという董承の正論に、結局曹操も怪しみながらも無理に奪おうとはしませんでした。
恩賜の御衣という慣習をうまく利用し、忠臣である董承に自然な形で密勅を渡す・・・という巧妙な計画だったんですね。
献帝もなかなか考えたものです。
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三国志ライターAkiの独り言
心を砕いて使える主君から御衣を賜るということは、臣下にとってそれはそれは名誉な事だったのだと思います。
さらにその衣を大切にし続ける事こそが、忠義心の現れだったのでしょうね。
恩賜の御衣は忠義の心が大切にされた、古き良き時代の慣習ですね。
今ではそんな慣習は薄れていますが、自分が尊敬している先輩や上司からその人の私物を頂いたら・・・やっぱり単純に嬉しいです。笑