190年1月、関東に袁紹を盟主とした反董卓連合が立ち上がります。
三国志演義では十八路諸侯軍と称していますが、実際に真実に近い形の布陣を考えてみます。
主力は兗州陳留郡の酸棗にあり、ここには名士である張邈を筆頭に、
その弟の張超、劉岱、橋瑁、袁遺、鮑信、曹操が陣を張りました。
黄河北岸には袁紹と王匡、河北の鄴には韓馥、南の豫州潁川郡には孔伷、
そしてさらに南の魯陽に袁術と孫堅が駐屯していました。
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魯陽に布陣
第1回戦→引き分け
孫堅が副官に豫州に出向いて兵糧の補給を命じています。
その送別の宴の最中に董卓軍の軽騎兵隊が来襲。孫堅は編成を守り、隊伍を乱さぬように命令し、
落ち着きを払って城内にひきあげたと呉書は伝えています。
董卓軍も整然とした撤収ぶりを見てうかつには手を出せなかったようです。
梁県で徐栄に敗れる
第2回戦→敗北
司州梁県に移駐した際に董卓軍の猛将・徐栄に攻め込まれ敗北。
孫堅は愛用の赤頭巾を配下の祖茂に被らせて間道づたいに落ち延びます。
祖茂も墓所に赤頭巾を引っ掛けてから潜み、みごとに逃げ延びます。
このとき同志の潁川太守である李旻が捕まり煮殺されています。
徐栄は曹操に続き、孫堅の兵も破ったことになるのです
なかなかの戦上手です。
陽人で胡軫の軍と対陣
第3回戦→大勝利
191年、梁県の陽人に駐屯する孫堅軍に、総大将(大督護)・胡軫とその配下として華雄、呂布が対峙します。
胡軫は武勇があったが人望がなく、呂布に足を引っ張られて中途半端な布陣と攻撃を繰り返し、やがて退却。
孫堅の過酷な追撃にあって都督の華雄を討ち取られ、さらし首になっています。
袁術から兵糧の補給がなくなったのはこのときからです。
おそらく董卓側か袁紹側が離間の計を仕掛けてきたのでしょう。
袁術は見事にはまり、魯陽から先に兵糧を輸送しなくなったのでした。
陽人から百里以上離れた魯陽まで孫堅は夜通し馬を駆けて、袁術に会見してこう云ったそうです。
「わたくしが身命を賭して戦っているのは、上は国家のために賊を討ち、下は将軍一門の私怨をはらせんがため」
袁術は怯えながら兵糧の調達に応じたと呉書には書かれています。
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大谷まで進軍
董卓は李傕を講和の使者として孫堅の懐柔を画策しますが、孫堅ははねつけます。
そして洛陽から九十里の大谷に軍を進めるのです。
陽人の戦いで勝利した勢いそのままです。
袁術軍の千兵である孫堅の兵が洛陽に一番乗りするのはもう時間の問題でした。
洛陽の占拠
しかし董卓は洛陽を捨てており、西の長安に遷都していました。
そして洛陽の街を焼き払ったのです。
孫堅は董卓があばいた諸皇帝の陵を修復し、埋め戻してから魯陽の袁術に合流しています。
このとき、孫堅が伝国の玉璽を手に入れたという噂がありますが真偽は不明です。
諸説ありますが、これほどの神器を秘蔵できるわけがないという説が正しいのではないでしょうか。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
実際に袁術はなにもしていません。
君主危うきに近寄らず。の言葉通り、遠く魯陽の地で孫堅の活躍を応援していました。
孫堅としても後詰に袁術の大軍がいることで、安心して猛進できたのではないでしょうか。
陽人の戦いまでの流れで特筆すべきは徐栄の強さ。
さすが中国は古来から「関西は将を出し、関東は相を出す」の言葉通り、圧倒的な強さです。
そして気になるのはなかなか本気を出さない呂布です。
まあ生え抜きの将でもありませんし、
そこまで董卓軍のために働こうとは思っていなかったのかもしれませんね。
それにしても戦争をすべて孫堅に任せてしまっている袁術は少し情けなくもあります。
戦え袁術!!孫堅もそう心の中で叫んでいたのではないでしょうか。
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