孔明(こうめい)の第一次北伐が、街亭(がいてい)の敗戦により
失敗に終わった頃、魏と呉の間でも大きな動きが生じていました。
魏の楊州牧、兼、都督に任命された曹休(そうきゅう)は、有能な人物で、
呉将、呂範(りょはん)を破り審悳(しんちょく)を斬るなど手柄を立てて、
呉を苦しめます、これを除こうと決意した呉は偽装降伏を仕掛けました。
西暦228年、石亭(せきてい)の戦いの始まりです。
この記事の目次
曹操に千里の駒(こま)と呼ばれた名将 曹休
曹休(?~228年)は字を文烈(ぶんれつ)といいます。
父の名前は不詳ですが、祖父は曹鼎(そうてい)といい呉郡の太守でした。
戦乱の中で父を亡くし、埋葬を済ませてから、祖父の土地である呉郡に渡り、
そこで、同族である曹操(そうそう)の挙兵を知って、軍に加わりました。
曹操は、曹休の才能を高く評価し、
「この子は、我が家の千里の駒なり」と常々言って、
実子の曹丕(そうひ)同様に扱い、目を掛けて可愛がりました。
曹休は、従父である曹純(そうじゅん)の死後には、
曹操の親衛騎兵である虎彪騎(こひょうき)の指揮を曹真(そうしん)と共に
任される程になります、彼の忠誠心は、並々ならないものになりました。
曹休、三方面作戦で呉を撃ち破る手柄を立てる
西暦222年、魏は呉に対して本格的な侵攻を開始し、
曹休、曹仁(そうじん)、曹真、夏侯尚(かこうしょう)を派遣して呉の国境を侵しました。
その中で曹休は征東大将軍に任命され、黄金の鉞(まさかり)を与えられます。
呉は呂範(りょはん)が、徐盛(じょせい)、全琮(ぜんそう)を率いて
洞口(どうこう)で迎え撃ちますが、折悪しく呂範の船団は暴風雨に襲われて
船が転覆したり流されたりします。
曹休は、これを見逃さず、総攻撃を掛け、呂範を撃破、数千人を戦死させます。
しかし、疫病が流行した事で、魏は進撃を断念し、呉と和睦。
曹休は、そのまま揚州に留まり、都督として睨みを効かせたのです。
孫権(そんけん)、周魴(しゅうほう)を使い偽装降伏の罠を掛ける
何とか、魏の猛攻を退けたとは言え、前線の指揮官が曹休では、
心の休まる暇もありません。
そこで、孫権は、曹休を何とか討ち取ろうと、偽装降伏作戦を
考案します、それに選ばれたのは鄱陽郡太守の周魴でした。
しかし、長年、呉郡に住んでいて嘘を見抜く目は半端ではない
曹休相手ですので、孫権は入念な芝居を組みました。
周魴の迫真の演技に曹休は騙される
まず、周魴は、曹休に呉に攻め込む事を手引きする
七通もの手紙を送りつけてきました。
「私はいわれなく、孫権めに嫌われており、直に太守を解任されます。
しかし、私も士大夫のはしくれ、父の代は海賊であったような、
卑しい成り上がり者に侮辱されたままでは、死んでも死にきれません
そこで、曹将軍に呉を攻め滅ぼしてもらい、私の恥を雪いでもらいたいのです。
その為であれば、私は、命もいりません」
さらに、周魴は、鄱陽(はんよう)郡に魏のスパイが紛れ込んでいる事を
想定して領内でも、自身がいかに孫権に嫌われているかをPRします。
或る時には、孫権の使者が役所に来て周魴を散々に罵倒します。
そして、見せしめのように当時の人には命の次に大事だった、
髪を切り落とさせて孫権に謝罪させるような事までします。
曹休は最初半信半疑でしたが、送っていたスパイの報告と、
手紙の内容が一致した事で信じるようになります。
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