別に誰に頼まれたわけではないのに、はじさんが勝手に
フィーチャーして盛り上げている、スーパーエリート袁術伝説。
秒速で皇帝を名乗り、秒速で落ちぶれた男、袁術(えんじゅつ)には、
曹操(そうそう)や劉備(りゅうび)にも負けない凄い所が沢山あります。
ここでは、そんな袁術の凄い所をテンポよく紹介していきますよ。
この記事の目次
1発目! 四代三公の超名門だから凄い!
袁術は、後漢でも名門中の名門の家に生まれています。
汝南袁氏は、初代の袁安(えんあん)から始まり、
袁敞(えんしょう)、袁湯(えんとう)、袁逢(えんほう)、
袁隗(えんかい)と4代にわたり、三公という主要な大臣クラスを勤めています。
通常は、一人、三公が出ただけでも大変な名誉なのに、
それが4代、100年以上にわたり出続けた袁家は
文句のつけようがない名門と言えるでしょう。
えっ?じゃあ袁術は、三公になったのかって?
うーんとね、袁術は、三公を飛び越えて皇帝になったから、
もっともっと、凄いんです。
2発目! 去る者は負わない主義だから凄い!
袁術の下には、その名門の名前ゆえに、有能な人材が、
次々と集まってきました。
孫家の基礎を築いた孫堅(そんけん)から始まり、
その息子の小覇王、孫策(そんさく)孫策の盟友、周瑜(しゅうゆ)、
赤壁の戦いの影の仕掛け人、魯粛(ろしゅく)。
さらには、少年時代の諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)、
いずれも三国志のビッグネームばかりです。
しかし、これらの人々は途中で戦死した孫堅を除き、
袁術に一時仕えただけでさっさと出て行ってしまうのです。
本来なら泣きべそかきながら追いすがってでも、
思いとどまらせる所ですが、
懐が深い袁術は、去るものは追わずを貫きました、そこが凄い!!
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3発目! 何気にいい人だったりするのが凄い!
全体としては有能でも、個人的には残酷非情な人が多い三国志の英傑達。
しかし、袁術は、個人としてもいい話が残っている稀有な人です。
少年時代の陸積(りくせき)が、寿春の袁術邸に遊びに行った時の事、
陸積は、デザートで出された当時は貴重品だったミカンを、
食べずに懐にいれて持ち帰ろうとして、途中で転びミカンをこぼしてしまいます。
それを見た袁術は、陸積に「君は泥棒の真似をするのか?」と叱りますが、
陸積が「故郷の母親に食べさせようと思って、、」と説明すると、
その親孝行ぶりに感動して、ミカンを与えています。
これは、二十四孝という、中国の道徳の教科書にも載る話です。
また、董卓(とうたく)が洛陽に入り、好き放題に振る舞いはじめた頃、
袁術は、曹操の屋敷にふらっと現れて、家人に
「孟徳は、董卓に逆らって殺されたらしい、、
お前達も罪が及ぶ前に洛陽から逃げた方がいいぞ」
と、さりげなくアドバイスをして、帰っています。
曹操が殺されたというのは誤報でしたが、
その後、董卓に仲間になるように誘われた曹操は、
董卓に先がない事を見越して、これを拒否し、
一族と共に洛陽を離れるので、結果として袁術のアドバイスは、
間違っていなかった事になるのです。
何気に良い事をしている袁術、凄いです。
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