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曹仁(そうじん)は、三国志演義では、鈍重で頑固、中途半端な兵法をひけらかし、
徐庶(じょしょ)や孔明(こうめい)に翻弄されるという、やられ役になっています。
しかし、実際の曹仁は、聡明で勇気と決断力に優れ曹操(そうそう)を支えた
名将だったのです。
この記事の目次
乱暴でも弓と狩猟に明け暮れた少年時代
曹仁は字を子孝(しこう)といい、西暦168年、曹操の養祖父、
曹騰(そうとう)の弟曹褒(そうほう)の子、
曹熾(そうしき)の子として誕生します、曹操よりは、十三歳年下になります。
若い頃は、乱暴者でしたが、同時に弓馬、狩猟を行って心身を鍛錬し、
190年、反董卓連合軍が結成され、世が騒然とすると、
彼を慕う数千名の少年を束ねて淮水(わいすい)・泗水(しすい)で暴れまわりました。
やがて、曹仁は同族の曹操の指揮下に入る事になります。
曹操は、曹仁の部下を統率する事の非凡な事を見抜き、
別府司馬(べっぷしば)に任じて以前の兵をそのまま率いさせる事にします。
騎兵を率いて、袁術、陶謙を撃破する突破力
曹仁の部隊は騎兵であったようです、193年、曹仁は袁術(えんじゅつ)と戦い、
袁術の兵を他の武将より多く斬り注目されました。
間も無く、曹操は徐州の陶謙(とうけん)を攻めますが曹仁はここでも騎兵を率いて
先陣を務め陶謙軍の呂由(りょゆう)を撃破します。
陶謙には、自慢の丹陽(たんよう)兵という精鋭部隊がいましたが、曹仁の騎兵には
まるで歯が立たず、防戦一方になり曹仁は徐州内を暴れまわります。
いい所無しの曹操軍で唯一気を吐いた曹仁
197年、曹仁は、宛(えん)の張繍(ちょうしゅう)と戦い、
周辺の都市を攻撃し3000名の男女を捕虜にする手柄を立てます。
この宛で曹操は、有名な美女の鄒氏(すうし)を得て骨抜きになり、
美貌に溺れる毎日を送り堕落していきますが、
この隙を突いて張繍が背き危機一髪の大ピンチになります。
ここでは、曹操軍の多くが油断した為に、長男の曹昂(そうこう)が死に、
ボディーガードの典韋(てんい)も戦死し、曹操軍は防戦一方でしたが、
曹仁は部隊を激励してよく戦い、張繍の追撃を阻止するのに功積を上げました。
曹操は、曹仁の活躍に深く感謝したと言われます。
河北平定戦では劉備を撃滅し、曹操を袁紹に集中させる
西暦200年、袁紹(えんしょう)にくっついた劉備(りゅうび)は、
撹乱部隊として許昌周辺で、曹操派の豪族達を続々と寝返らせ大兵力を造り上げます。
これには、曹操も慌て、頭が真っ白になってしまいますが、冷静な曹仁は、
「劉備は、まだここにきて日が浅いので、今なら破れます」と進言。
直ちに騎兵で急行して、劉備を撃破しました。
これにより曹操は、袁紹との対決のみに頭を使えるようになり、
曹仁は曹操の河北統一に大きな貢献をする事になります。
同僚の牛金を救い、呉の周瑜の度肝を抜く
西暦209年の南郡の攻略戦では、赤壁に勝利して勢いにのる
呉の周瑜(しゅうゆ)と戦います。
初戦において、牛金(ぎゅうきん)が300の手勢で城から出ますが、
周瑜はそれを6000の大軍で包囲して、じわじわ、なぶり殺し
魏軍の士気を下げようとします。
「おのれ周瑜!ますらおを侮辱するかッ!!」
曹仁は、陳矯(ちんきょう)が止めるのも聞かず、
たった十騎の勇士だけを連れて城を出ると、周瑜軍に突撃し、
見事に包囲を破って牛金を救いだし帰還します。
これにより、魏軍の士気は上がり、周瑜の企みは失敗しました。
鈍重なイメージは嘘!実は騎兵を率いたスマートな名将曹仁(そうじん)
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