三国志演義では、愛すべき豪勇無双な酒好き、単細胞、
おっちょこちょいキャラの張飛(ちょうひ)ですが、
史実では、ベテラン張郃(ちょうこう)を翻弄して破る程に策士な一面もありました。
しかし、部下に対して酷薄で愛情がない性格が災いし、
西暦221年、関羽の弔い合戦を準備する途中、配下の張達(ちょうたつ)、
范彊(はんきょう)によって寝首をかかれて死にました。
では、彼の死後、一族はどうなってゆくのでしょうか?
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張飛の後は次男の張紹が引き継ぐ
さて、張飛の非業の最期の後を継いだのは長男の張苞(ちょうほう)ではなく
意外にも次男の張紹(ちょうしょう)でした。
張苞は三国志演義では、関羽(かんう)の息子の関興(かんこう)と
義兄弟になり活躍しますが、あれはフィクションであって、史実の張苞は
病弱で父より先に、恐らく十代で死んでいるようです。
張紹は、張飛の次男で、張苞が早く死んだ事で家督を継ぐ事になります。
官位は侍中、尚書僕射まで昇進していますが、兵を率いて前線で戦った
というような記述はありません。
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張紹は非力な文官だったのか?
関羽の後を継いだ、関興にしても、この張紹にしても初代が武勇一筋で
成りあがってきたのと対照的に地位は高くても文官イメージが強いです。
これは、益州に拠点を得た事で劉備(りゅうび)や重臣の一族も世襲化が始まり、
次第に前線で戦い、手柄を立てる立場から離れてきたとも言えるでしょう。
しかし、張紹が戦線に耐えられないほどひ弱かと言うと、
それは違うかも知れません。
何より、張氏は後主、劉禅に二人の皇后を送った外戚なので、
万が一を恐れて、前線に送らなかった可能性もあるからです。
張飛の子は蜀の滅亡に立ち会っていた
この張紹は長生きします、そして西暦263年、魏の鄧乂(とうがい)が
成都に迫ると劉禅は、譙周(しょうしゅう)の提言を容れて降伏を決意し、
光録大夫、譙周(しょうしゅう)、駙馬都尉、鄧良(とうりょう)
そして、侍中の張紹に降伏文書を持たせて雒城で鄧乂と会見させます。
鄧乂は劉禅の降伏を受けいれて、ここに蜀漢は滅亡するのです。
そう、張飛の息子は、蜀の滅亡という時代の転換点に立ち会っていました。
蜀漢の建国に大功のあった張飛と蜀漢滅亡の幕引きをした張紹、
これもドラマチックと言えば、ドラマチックな話です。
そして、幸運な事に張紹は、その後に起きた鍾会(しょうかい)の反乱に
巻きこまれる事なく尚書令、樊建(はんけん)、秘書令、郤正(こくせい)、
殿中督 張通(ちょうつう)、そして譙周は列侯に封じられ、
張紹も天寿を全うしたようです。
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戦って戦死した張苞の子、張遵
文官イメージの張飛の子孫で、唯一、祖父の面影があるのが張遵(ちょうじゅん)です。
彼は張苞の子ですが、恐らく張苞の死んだ頃は幼子だったのでしょう。
家督は叔父の張紹が継いでいました。
彼も、蜀漢王朝の外戚として引き立てを受けて、尚書まで昇りますが、
そのまま、蜀漢の滅亡を傍観するのを潔しとはしませんでした。
魏の鄧乂が成都に迫った時、諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)の息子の
諸葛瞻(しょかつ・せん)と同行し、綿竹関で戦って戦死しました。
張飛の一族では、一番戦闘的で張飛に似ていたと言えるでしょう。
夏侯家は美男・美女の家系、張飛の娘達
張飛の妻は、夏侯覇(かこうは)の従妹にあたる女性で、
西暦200年頃に、山に薪を取りに来た所を張飛に見初められ、
13~14歳程で略奪婚されました。
ただ、張飛は身分コンプレックスが強く、士大夫を畏れたので、
略奪婚とはいえ、名族と思われた彼女が粗略に扱われる事はなく、
無事に娘を二人産んでいます。
夏侯一族は美男、美女が多かったようで、あの無骨なイメージがある
夏侯惇(かこうとん)も隻眼になってからは、鏡を見ては醜い傷跡に癇癪を起こし
鏡を地面に叩きつけたという記述がある事から、容姿に相当な自信が
あったのではと推測できます。
そうなると、張飛の娘二人も母の血筋で美女だったとも
考えられるのです。
姉妹して劉禅の妃になり張氏は外戚となる
張飛の姉は、劉禅が即位するとすぐに皇后に立てられますが、
西暦237年に死去し、敬哀皇后と諡(おくりな)されます。
すると、劉禅は、妹の方を直ぐに召しだして貴人の位を授け、
翌年には皇后に立てて張皇后とされます。
これは儒教の倫理では大変なタブーですが、
しかし、劉禅がこれを強行した所を見ると、或いは、
妹と姉はそれほど年が離れてなく姿も似ていたのかも知れません。
こちらの妹の張皇后は、劉禅との仲も睦まじく、蜀の滅亡後は
夫と共に洛陽に移り住んでいます。
関羽(かんう)の一族と比べると張飛の一族は戦死者を出しはしたものの、
おおむね平穏無事に亡国を乗り切ったと言えるでしょう。
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三国志ライターkawausoの独り言
張飛の娘達は、母から母方の一族の話を聞いていたようです。
族伯父にあたる夏侯淵(かこうえん)が定軍山で黄忠(こうちゅう)に討ち取られると、
彼女は、劉禅に夏侯淵を埋葬してくれるように頼んでいます。
今は敵同士になったとはいえ、母の族伯父にあたる人物の遺骸を
野ざらしにするのはしのびなかったのでしょう。
彼女の優しい性格がうかがえます。
後に、彼女の族弟にあたる夏侯覇は司馬一族による誅殺を恐れ、
西暦249年、蜀に降りますが、或いは、夏侯淵を丁寧に埋葬した劉禅の態度から
自分が降っても殺される事はないと思ったのかもしれません。
気の弱い劉禅は夏侯覇が、自分を内心では恨んでいると思ったのか、
「あなたの父は戦難で死んだのであって、私の父が手にかけたのではない」
と釈明し、自分の皇子を指差して、この子達は夏侯氏の外甥であると言い、
夏侯覇に沢山の贈物をして機嫌を取っています。
劉禅の慌てぶりを見る限り、夏侯覇の厚遇には、
「あなたの族姉を奪って(私がやったのではないが)、あい済まぬ、
あなたの父を殺してしまい、(私がやってないが)あい済まぬ」
そういう贖罪の意識があったのではないか?とkawasuoには思えます。
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