漫画や小説等で「四天王」とは「七人衆」のような、ある組織の重要人物達を一括りにした役職のようなものがよくあります。史実でも重要人物や重要な事柄を数字で括っていることは珍しくありません。
後漢時代には「西園八校尉」等があり、この中にはかの有名な曹操(そうそう)も含まれていました。こうして数字で切っているのは何となく格好良いですね。
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呂布の配下、八健将とは?
三国志でもこうした括りは存在しますが、三国志の豪傑として知られる呂布 奉先(りょふ ほうせん)の部下には、「八健将」という括りの将達がいました。今回はこの八健将についてご説明致します。
三国志界の著名な称号
三国志界では、その名称に数字を入れられた官職の総称、称号があります。有名なところでいえば、蜀の五虎大将軍です。三国志演義では、劉備(りゅうび)が漢中王になった時に、蜀の関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)、馬超(ばちょう)、黄忠(こうちゅう)、趙雲(ちょううん)達は、五虎大将軍に命じられました。
魏では、五大将軍というものがあります。曹操(そうそう)に仕えた将のうち、彼の親類出ない優れた将達で構成されています。五大将軍は張遼(ちょうりょう)、楽進(がくしん)、于禁(うきん)、張郃(ちょうこう)、徐晃(じょこう)の5人を指します。
五大将軍は、五大将、五将軍、五子良将、等々、異なる名称がありますが、全て同じ意味です。蜀の五虎大将軍、魏の五大将軍、等こうした名称で呼ばれるのは、それに属する者達が他とは違い抜きん出たものであるからでしょう。それらの一つとして呂布の八健将があります。
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八健将とはどんな人達だった?
まず、初めに断っておきますと、八健将は実は三国志演義で述べられているだけで、史実ではこのような括りは無かったと思われます。ただ、呂布 奉先(りょふ ほうせん)の部下達に八人の将がいたためこのような称号が後年作られたのだと思います。
蜀の五虎大将軍も実は創作上の称号と言われていますので、同じ類でしょう。呂布 奉先(りょふ ほうせん)といえば、三国志界の無双の豪傑で、裏切ったり裏切られたりした逸話で有名です。彼は、義父であった菫卓(とうたく)を裏切り、その後の戦乱で敗走、流軍状態となります。
この時、呂布(りょふ)とともに戦った八人の将達を小説、三国志演義で八健将と命名したのだと考えられます。正史三国志において、彼らが八健将のような一括りの存在であったかは定かではありません。
八健将の構成員は?
呂布(りょふ)の配下の中に、張遼(ちょうりょう)、臧覇(ぞうは)、郝萌(かくぼう)、曹性(そうせい)、成廉(せいれん)、魏続(ぎぞく)、宋憲(そうけん)、侯成(こうせい)ら八人の武将がいました。名前の順番が八健将での序列の順になっています。張遼(ちょうりょう)が序列一位ですね。
呂布(りょふ)の名声が高すぎるあまり、彼らは呂布(りょふ)の足元で目立たない存在となっているのと、個々人によって実力に差がある様子です。実際、張遼(ちょうりょう)は後々、魏で活躍するのでとても有名で記録も多く残っていますが、中にはほとんど記録が残っていない者もいます。三国志に詳しくない人では全員知っているという人はいないのではないでしょうか。
八健将はなぜ出来た?
史実では、恐らくこのような称号は無かったと考えられます。小説の三国志演義にて、「八員の健将」と記載されており、ここから派生して「八健将」名付けられたと考えられます。正史と演義で、八健将の生涯は大きく異なっています。演義の方では、八健将の初登場は、呂布(りょふ)が濮陽にて曹操(そうそう)軍と戦う時のこと、八健将は呂布(りょふ)を先頭に、両脇に控えていました。
序列一位の張遼(りょうりょう)と二位の臧覇(ぞうは)の二人がそれぞれ3人ずつ残りの将を率いていました。
八健将達の末路は?
呂布(りょふ)とともに戦った八健将ですが、戦乱と呂布(りょふ)の不徳不運(?)の中で、紆余曲折を経て劉備(りゅうび)のもとに落ち延びました。しかし、その劉備(りゅうび)を裏切り、最終的に曹操(そうそう)との戦いで部下から裏切られ敗北し、呂布(りょふ)は死刑に処せられます。
この時、八健将はどうなったのかというと・・・。細かな話は割愛しますが、呂布(りょふ)とともに戦い討ち死にした者もいれば、裏切って他の主の元に仕えた者等々、様々な最期を迎えます。なお正史では、八健将という呼ばれ方はしませんが、彼らは更に複雑な末路を迎えています。
三国志ライターFMの独り言
羅貫中(らかんちゅう)の作った(?)、“八健将”という称号から、優秀或は勇猛な将の集まりのように感じます。ただ、物語としての三国志演義を読んだ印象では、個人的には八健将の活躍は関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)等の有名な将達と比較して、とても見劣りがします。
しかし、彼らを八健将と名付けることで、彼らの描かれる姿を彩ったのでしょう。知名度で劣ることは隠せませんが、それでも乱世時代を生きた彼らに対して、羅貫中(らかんちゅう)は華を添えたというところでしょうか。
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