
中国の三国時代は、後漢末の混乱を経て、曹丕が建てた魏、劉備が漢王朝の継承を掲げて建てた漢(後世に蜀漢と呼ばれる)、孫権が建てた呉が並び立った時代です。一般的には、220年の魏建国から280年の晋による呉の滅亡までを指します。
この記事では、劉備が漢中王となった219年から、諸葛亮が五丈原で亡くなった234年までの蜀漢前期を、初心者向けの年表形式で解説します。蜀漢の成立、夷陵の戦い、諸葛亮の南征と北伐など、主要な出来事を正史『三国志』を軸に順番に確認していきましょう。
この記事の目次
建安二十四年(219年):定軍山の戦いと劉備の漢中王就任
219年春、劉備軍は定軍山に陣を構え、黄忠が曹操軍の将軍・夏侯淵(かこうえん)を討ち取りました。その後、曹操は長安から大軍を率いて漢中へ進出します。しかし、劉備は要害を守って正面決戦を避け、曹操軍は十分な戦果を挙げられないまま、同年夏に漢中から撤退しました。漢中を支配下に置いた劉備は、同年秋、家臣たちの推戴を受けて漢中王となります。これにより劉備は、魏王・曹操に対抗する政治的な立場を明確にしました。
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建安二十四年(219年):樊城攻撃と関羽の最期
劉備が漢中王となった219年、関羽は荊州から北上し、魏の曹仁が守る樊城を攻撃しました。漢水の氾濫によって于禁の七軍が壊滅すると、関羽は于禁を降伏させ、龐徳を斬り、一時は「華夏を震わせた」と記されるほど勢力を伸ばします。
しかし、魏の徐晃が救援に現れたうえ、孫権軍が呂蒙らを派遣して関羽の背後にあった江陵と公安を奪取しました。退路と兵站を失った関羽軍は崩れ、関羽は息子の関平とともに臨沮で捕らえられ、処刑されました。単純に「呉の裏切り」だけで説明するのではなく、魏・呉双方から挟撃された結果と見る必要があります。
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建安二十六年・章武元年(221年):劉備が皇帝に即位
220年、曹操の跡を継いだ曹丕は、後漢の献帝から禅譲を受けて魏の皇帝となりました。翌221年、諸葛亮や黄権(こうけん)らの推戴を受けた劉備も、成都で皇帝に即位します。劉備が国号として掲げたのは「漢」です。後世の歴史家が前漢・後漢などと区別するため、一般に「蜀」または「蜀漢」と呼んでいます。即位の時点までは漢王朝の建安二十六年とされ、即位後に独自の元号「章武」へ改元されました。そのため、221年には「建安二十六年」と「章武元年」という二つの表記が現れます。
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章武元年(221年):張飛の死と劉備の呉征伐
221年、張飛は劉備の呉征伐に参加するため、兵を率いて江州で本隊と合流する予定でした。しかし出発直前、配下の張達と范彊に殺害されます。正史『三国志』では劉備と張飛を実の兄弟とはしておらず、桃園の誓いも『三国志演義』で広まった物語です。
同年7月、劉備は関羽の死と荊州喪失への怒りを背景に、呉への遠征を開始しました。蜀漢軍は当初、呉軍を退けながら秭帰まで進み、武陵の五渓地域に住む諸集団からも協力の申し出を受けます。ただし、遠征の目的は張飛の弔いだけではなく、呉に奪われた荊州をめぐる軍事・外交上の対立も大きな要因でした。
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章武二年(222年):夷陵の戦いで陸遜に大敗
222年、劉備は長江沿いに進軍し、夷陵周辺の山地に数多くの陣営を築きました。呉の総司令官・陸遜(りくそん)は、蜀漢軍の勢いが衰えるまで正面衝突を避け、好機を待ちます。
同年夏、陸遜は火攻めをきっかけに総攻撃を行い、蜀漢軍の多数の陣営を破りました。劉備は大きな損害を受けながら白帝城方面へ退却し、その後は永安にとどまります。冬には呉との講和を受け入れました。なお、劉備が病気になった原因を夷陵での疲労だけに限定できる史料はありません。
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章武三年(223年):劉備が永安宮で死去
223年、永安に滞在していた劉備の病状が悪化します。劉備は諸葛亮に後継者・劉禅の補佐を託し、尚書令の李厳をその副としました。同年4月、劉備は永安宮で亡くなり、劉禅が皇帝に即位します。夷陵の敗戦が劉備に大きな打撃を与えたことは確かですが、正史は病名や直接の死因を詳しく伝えていません。「敗戦が原因で病死した」と断定せず、永安で病が重くなったと理解するのが安全です。
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建興三年(225年):諸葛亮の南征と「七縦七擒」
劉備の死後、蜀漢南部では雍闓・高定・朱褒らの反乱が続いていました。225年春、諸葛亮は軍を率いて南征し、同年秋までに南中を平定します。現地の有力者を統治に活用し、蜀漢軍を常駐させずに秩序を保とうとした点も、この南征の重要な特徴です。
史料上の注意:孟獲(もうかく)を七度捕らえて七度放した「七縦七擒」は、陳寿の『三国志』本文ではなく、裴松之が注に引用した『漢晋春秋』に記されています。そのため、南征そのものは正史本文で確認できますが、七縦七擒の細部は後世に伝わった逸話として区別して読む必要があります。
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建興五年(227年):出師の表を提出して漢中へ
南中を平定した諸葛亮は、魏への北伐に向けて軍備を整えました。227年、成都を離れる前に劉禅へ「出師の表」を上奏し、宮中の政治を公平に行うこと、賢臣を信頼することなどを進言します。諸葛亮は漢王朝の再興と旧都の回復を目標に掲げ、軍を率いて漢中へ進み、沔陽に駐屯しました。正史には、この出陣時の蜀漢軍を「20万」とする記述はありません。兵数を断定せず、翌228年に始まる北伐の拠点を漢中に築いたと理解するのが適切です。
建興六年(228年):第一次北伐と街亭の敗戦
228年春、諸葛亮は第一次北伐を開始しました。趙雲と鄧芝の部隊を箕谷に進めて魏軍を引きつける一方、諸葛亮自身は主力を率いて祁山方面へ進軍します。魏の南安・天水・安定の三郡が相次いで蜀漢に呼応し、魏の朝廷にも大きな衝撃を与えました。諸葛亮は魏の援軍を防ぐ重要地点・街亭を馬謖(ばしょく)に守らせます。しかし馬謖は諸葛亮の指示に背き、張郃(ちょうこう)に大敗しました。街亭を失ったことで進軍の継続が難しくなり、諸葛亮は漢中へ撤退します。
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建興八年(230年):曹真・司馬懿らの蜀侵攻
230年、魏は曹真を中心に複数の進路から漢中への侵攻を開始しました。曹真は子午道、司馬懿は漢水方面などから進み、張郃らも別路から蜀を目指します。蜀漢側は諸葛亮が防衛態勢を整え、李厳(りげん)も漢中へ移って守りに加わりました。ところが、山岳地帯で一か月以上にわたる長雨が続き、桟道も寸断されます。魏軍は予定どおり進軍できず、本格的な決戦に至る前に撤退しました。この遠征の中止は、蜀漢軍が魏軍を会戦で撃破した結果ではなく、悪天候と補給・交通上の問題によるものです。
建興九年(231年):祁山への北伐と木牛の使用
231年、諸葛亮は再び祁山へ出兵し、兵糧輸送に「木牛」を使用しました。木牛の具体的な構造には不明な点が残りますが、山道の多い北伐で補給を支えるために用いられた運搬具と考えられています。
蜀漢軍は魏軍と戦い、裴松之注が引用する『漢晋春秋』には、魏延・高翔・呉班らが魏軍を破ったことも記されています。しかし木牛を導入しても補給問題が完全に解決したわけではなく、正史本文では兵糧が尽きたため撤退したとされています。撤退する蜀漢軍を追った魏将・張郃は、木門で矢を受けて戦死しました。
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建興十二年(234年):五丈原の戦いと諸葛亮の死
234年春、諸葛亮は斜谷道から大軍を進め、兵糧輸送に「流馬」を使用しました。蜀漢軍は五丈原に陣を構え、渭水の南で司馬懿率いる魏軍と対峙します。これまで何度も補給に苦しんだ諸葛亮は、長期駐屯に備えて兵士の一部に屯田を行わせました。司馬懿は守備を固め、諸葛亮がたびたび挑戦しても大規模な決戦を避けました。ただし、両軍がまったく戦わなかったわけではなく、小規模な衝突や駆け引きを続けながら百日余り対陣しています。
同年8月、諸葛亮は陣中で病没しました。享年54と記されています。蜀漢軍はその死を伏せながら撤退を開始し、司馬懿はいったん追撃しましたが、蜀軍が反撃する構えを見せると退きました。諸葛亮の死によって、本人が指揮する北伐は終わりを迎えます。
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蜀漢前期の年表まとめ
219年に漢中王となった劉備は、221年に漢の皇帝へ即位しました。しかし関羽と張飛を相次いで失い、222年の夷陵の戦いにも大敗します。223年に劉備が亡くなると、諸葛亮が劉禅を支えながら蜀漢の政治と軍事を担いました。
諸葛亮は南中を平定して国内の安定を図り、227年から漢中を拠点に魏への北伐を進めます。街亭の敗戦や補給難に苦しみながらも遠征を重ねましたが、234年に五丈原で病没しました。蜀漢の歴史はその後も263年の滅亡まで続きます。
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参考文献・史料
- 陳寿『三国志』巻32「先主伝」
- 陳寿『三国志』巻35「諸葛亮伝」
- 陳寿『三国志』巻36「関羽伝・張飛伝」
- 陳寿『三国志』巻58「陸遜伝」
- 陳寿著・裴松之注・今鷹真/井波律子/小南一郎訳『正史 三国志 全8冊セット』ちくま学芸文庫、筑摩書房
【北伐の真実に迫る】

























