就職面接は非常に難しいものです。見た目から出来が良さそうだと思って採用した人物が全くの無能だったということもあれば、期待もしないで採用した人物がバリバリの有能だったということもあります。
だから人間観察というものは、非常に難しいです。ちなみに私は大して人間観察もしていないのに、人に「ダメ」という烙印を押す人間は大嫌い!今回は優れていながら、命を落とした崔琰について紹介します。
袁紹の政治顧問となる
崔琰は清河郡東武城県の出身。清河郡崔氏は名門で有名でした。声・容姿に気品のある人物であり、若い頃は剣術を好んでいました。23歳の時に正規兵に任命。しかし名門が武人として扱われることに良く感じなかったらしく『論語』などの勉強を始めました。29歳の時に一流の儒学者である鄭玄に弟子入りします。
ところが初平4年(193年)に黄巾軍の残党が攻め寄せてきて学問どころではなくなります。仕方なく崔琰は鄭玄のもとを立ち去り、故郷でのんびりと暮らしました。
やがて大将軍の袁紹から「うちに来てください」とスカウトされます。袁紹が大将軍に任命されたのは建安2年(197年)なので、崔琰がスカウトされたのもその時期でしょう。
来てみた崔琰は袁紹軍を見てビックリ!軍は略奪・暴行の限りを尽くしています。まさに『キングダム』の桓騎軍・・・・・・あれはあれで戦略の1つですけどね。
話を戻します。呆れた崔琰は(1)兵士の略奪・暴行の禁止、(2)戦で犠牲になった人の埋葬をして仁徳を見せること の2点を提案しました。袁紹が崔琰の意見を取り入れたのか史料は何も語っていませんが、崔琰が騎都尉に任命されていることから、おそらく袁紹はとりいれたのでしょう。
袁紹の政治が生ぬるいと荀彧や郭嘉からグサグサ言われるのは、崔琰の意見を取り入れたからと私は推測しています。つまり、崔琰は袁紹の政治顧問だったのです。ところが、その政治顧問も官渡の戦いでは不戦を唱えており袁紹とは意見が合いませんでした。
袁紹の死後、崔琰は子供の袁譚・袁尚の双方からスカウトを受けますが仮病を使って拒否。もちろんこれはバレてしまい投獄。陳琳のおかげでなんとか命は助かりますが、この件で崔琰は袁氏と決別します。その後、崔琰は曹操に仕えて重用されていきました。
人物を見抜く才能
話は少し前に戻ります。崔琰は司馬懿の兄である司馬朗と友人でした。この当時、司馬朗の弟の司馬懿は成年に達したばかりです。司馬懿に会った崔琰はすぐにただ者ではないと見抜き、司馬朗にそれを伝えます。もちろん司馬朗は「よく見すぎです」と言って信じません。しかし崔琰は自説を曲げませんでした。
後に司馬懿が蜀(221年~263年)の北伐を防いだり、魏の政治の中心的存在となり、西晋(265年~316年)の基礎を築くことになったのは説明不要です。こんな話もあります。崔琰の従弟の崔林は才能はあったのですが、目立たないことが原因で親族から馬鹿にされていました。だが、崔琰だけは「必ず成功する」と予測していました。
崔琰の予測は的中。やがて崔林は出世して魏(220年~265年)の御史中丞にまで抜擢されたのでした。このように崔琰は人を見抜くことに関しては長けていたのでした。
曹植派に恨まれる
建安21年(216年)に曹操は魏王になりました。この時、楊訓という人物が曹操万歳の文章を提出。楊訓は、かつて崔琰が推薦した人物でした。権力者にペコペコする楊訓を崔琰は厳重注意。崔琰の行動は当たり前ですが、これを利用した人物がいました。
丁儀でした。彼は曹操の息子の曹植の部下の1人です。なぜ丁儀が登場したのでしょうか?実はこれにはわけがありました。曹操の魏王就任以前に息子の曹丕と曹植の間で後継者争いがありました。
曹植は崔琰の姪を妻にしていたので普通に考えたら、崔琰は曹植を後継者に推薦するはずです。しかし崔琰は私情に流されずに、長男である曹丕を後継者に推薦しました。
その結果、曹丕は後継者となり曹植は外されました。曹植派に所属していた丁儀はこの時の恨みを忘れていなかったはずです。丁儀は崔琰が楊訓を注意した話を曹操に吹き込みます。当然、曹操はいい気持ちがしません。
結局、崔琰は罪人に落とされました。正史『三国志』に注をつけた裴松之が持って来た『魏略』によると髪を剃られたようです。古代中国では屈辱的な刑罰の1つです。だが、崔琰はそんなことをされても全く動じません。肝っ玉の太さは天下一品!それどころか、彼のところには多くの客人がやって来ます。
崔琰の人望の厚さに恐れをなした曹操は、とうとう自害を命じます。崔琰は逃げも隠れもしませんでした。命じられた通り、自害して果てました。享年54歳。
三国志ライター 晃の独り言
崔琰が亡くなっても清河郡崔氏は途絶えることはなく繁栄していきます。北魏(386年~534年)では崔浩という名宰相を輩出します。彼は北魏の歴史を石碑に刻んで一般人にさらしたことから、皇帝の怒りに触れて処刑されます。しかし、そのようなことをしたにも関わらず清河郡崔氏は、ますます栄華を極めました。全ては崔琰のおかげだったのでしょうか?
※参考文献
・石田徳行「胡族政権と漢人政権―とくに清河の崔氏の場合―」(『山崎先生退官記念東洋史学論集』1967年所収)
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