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曹丕の第2夫人の郭皇后とはどんな人?後漢の小公女セーラ

2020年5月10日


 

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郭皇后(女性)

 

正史『三国志』で郭皇后(かくこうごう)は2名登場します。1人は(220年~265年)の初代皇帝曹丕(そうひ)の第2夫人となった人物、もう1人は魏の第2代皇帝曹叡(そうえい)の第2夫人となった人物。偶然にも2人とも第2夫人である。今回は曹丕に嫁いだ郭皇后を正史『三国志』をもとに紹介します。

 

※記事の都合上、名前は郭皇后で通します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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後漢の小公女セーラ

黄巾賊を率いて暴れまわる何儀(かぎ)

 

郭皇后は安平郡(あんぺいぐん)広宗県(こうそうけん)の出身であり代々役人の家でした。袁紹(えんしょう)ほどの名家ではありませんが、孫堅(そんけん)劉備(りゅうび)ほど勢力が乏しかったわけではありません。生まれた年は中平(ちゅうへい)元年(184年)の黄巾の乱(こうきんのらん
)
の時です。

 

剣を持ち戦う楊端和

 

父親は、かなりの親バカだったらしく彼女を「この子はわしの家の王様だ!」自慢しており、挙句の果てに彼女の(あざな)を「女」にしていたようです。『キングダム』の楊端和(ようたんわ)みたいな子だったのでしょうか?

 

処刑を下す曹操

 

ところが董卓(とうたく)専横(せんおう)曹操(そうそう)徐州(じょしゅう)大虐殺など相次ぐ戦乱で両親は亡くなり家は没落(ぼつらく)。郭皇后は流浪して金持ちの家に引き取られ召使いとなってしまいます。まさに、後漢(ごかん)(25年~220年)の小公女セーラです。

 

 

中年で後宮に入る

魏志(魏書)_書類

 

郭皇后は召使いとして働いていた間、どのような生活をしていたか史料は何も語っていません。やがて時は流れて曹操は魏公(ぎこう)になりました。この時、郭皇后はどのようなツテを使ったのか不明ですが後宮(こうきゅう
)
に入りました。

 

曹丕に嫁つぐ郭皇后(女性)

 

曹操が魏公だったのは建安(けんあん
)
13年(213年)~同21年(216年)まで。つまり、彼女は30~33歳の間で後宮に入ったのです。昔は人生50年が人間の生涯です。郭皇后は、すでに人生の半分以上を生きているので昔の人の感覚だったら中年に該当します。

 

王族ボンビーから一転セレブ10 董太后(女性)

 

宮女としての身分も決して良いものではありません。『キングダム』で例えるのなら向ちゃんと(よう)ちゃんの初登場時ぐらいの身分からのスタートです。

後継者争いをしている曹丕と曹植

 

曹丕とは宮女(きゅうじょ)として働いていた時からの知り合いでした。正史『三国志』によると曹丕が曹植(そうしょく)との後継者争いに勝利して皇太子(こうたいし)になれたのは、彼女を意見を取り入れたのもあったからと言われています。

 

曹丕

 

曹丕と曹植の後継者争いについては様々な見解があるので、功績は郭皇后にあると結論するのは早計です。ただし、彼女も曹丕に力を貸していたと考えても良いと思われます。残念ながら史料に何も記されていないのが惜しいことです・・・・・・

 

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甄夫人を殺した?

曹丕にビビって意見を言えない家臣達

 

魏の黄初(こうしょ)2年(221年)に曹丕の第1夫人である甄夫人(しんふじん)が亡くなりました。曹丕により自殺を命じられたようです。甄夫人は曹丕が人前に出して自慢するほどの奥さんでした。

 

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

 

それなのになぜ自殺させたのでしょうか?実は後漢が滅亡して魏が建国された頃には、曹丕の甄夫人に対しての愛情も薄れていました。曹丕は愛情はすでに郭皇后や他の女性に移っていました。怒った甄夫人はブツブツと文句をたれるようになりました。

 

魏の皇帝になる曹丕

 

これをチャンスと思った曹丕は不敬罪(ふけいざい
)
ということで甄夫人を始末したのです。もしくは皇后になりたいという思いから郭皇后が曹丕に入れ知恵したのかもしれません。

【次のページに続きます】

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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