正史『三国志』で郭皇后は2名登場します。1人は魏(220年~265年)の初代皇帝曹丕の第2夫人となった人物、もう1人は魏の第2代皇帝曹叡の第2夫人となった人物。偶然にも2人とも第2夫人である。今回は曹丕に嫁いだ郭皇后を正史『三国志』をもとに紹介します。
※記事の都合上、名前は郭皇后で通します。
この記事の目次
後漢の小公女セーラ
郭皇后は安平郡広宗県の出身であり代々役人の家でした。袁紹ほどの名家ではありませんが、孫堅・劉備ほど勢力が乏しかったわけではありません。生まれた年は中平元年(184年)の黄巾の乱の時です。
父親は、かなりの親バカだったらしく彼女を「この子はわしの家の王様だ!」自慢しており、挙句の果てに彼女の字を「女王」にしていたようです。『キングダム』の楊端和みたいな子だったのでしょうか?
ところが董卓の専横、曹操の徐州大虐殺など相次ぐ戦乱で両親は亡くなり家は没落。郭皇后は流浪して金持ちの家に引き取られ召使いとなってしまいます。まさに、後漢(25年~220年)の小公女セーラです。
中年で後宮に入る
郭皇后は召使いとして働いていた間、どのような生活をしていたか史料は何も語っていません。やがて時は流れて曹操は魏公になりました。この時、郭皇后はどのようなツテを使ったのか不明ですが後宮に入りました。
曹操が魏公だったのは建安13年(213年)~同21年(216年)まで。つまり、彼女は30~33歳の間で後宮に入ったのです。昔は人生50年が人間の生涯です。郭皇后は、すでに人生の半分以上を生きているので昔の人の感覚だったら中年に該当します。
宮女としての身分も決して良いものではありません。『キングダム』で例えるのなら向ちゃんと陽ちゃんの初登場時ぐらいの身分からのスタートです。
曹丕とは宮女として働いていた時からの知り合いでした。正史『三国志』によると曹丕が曹植との後継者争いに勝利して皇太子になれたのは、彼女を意見を取り入れたのもあったからと言われています。
曹丕と曹植の後継者争いについては様々な見解があるので、功績は郭皇后にあると結論するのは早計です。ただし、彼女も曹丕に力を貸していたと考えても良いと思われます。残念ながら史料に何も記されていないのが惜しいことです・・・・・・
甄夫人を殺した?
魏の黄初2年(221年)に曹丕の第1夫人である甄夫人が亡くなりました。曹丕により自殺を命じられたようです。甄夫人は曹丕が人前に出して自慢するほどの奥さんでした。
それなのになぜ自殺させたのでしょうか?実は後漢が滅亡して魏が建国された頃には、曹丕の甄夫人に対しての愛情も薄れていました。曹丕は愛情はすでに郭皇后や他の女性に移っていました。怒った甄夫人はブツブツと文句をたれるようになりました。
これをチャンスと思った曹丕は不敬罪ということで甄夫人を始末したのです。もしくは皇后になりたいという思いから郭皇后が曹丕に入れ知恵したのかもしれません。
【次のページに続きます】