三国時代で最強だった魏王朝、そんな魏のもうひとつの特徴は43年の命脈の中で宦官による専横が無かったという事でしょう。
ライバルの蜀が皇帝劉禅と宦官黄皓のズブズブな公私混同に見舞われ衰退が早まったのに比較すると際立った特徴です。では、どうして魏や呉では宦官が悪事を働けなかったのでしょうか?
この記事の目次
魏呉で宦官が悪事を働けない理由ズバリ!
では、魏と呉で宦官が悪事を働けなかった理由をズバリ解説します。
1 | 魏は宦官の孫、曹操が宦官の特性を知り抜き権限を与えなかった。 |
2 | 魏・呉では後継者に早くから友人をつけ後継者が孤立して宦官を頼らぬように配慮した。 |
3 | 呉では主君に幼帝が少なく宦官や外戚の専横が難しかった |
4 | 魏では宦官がはびこる前に司馬氏が勢力を伸ばし皇帝を傀儡化した |
以上が魏・呉で宦官が悪事を働けなかったザックリとした理由です。
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曹操が宦官の弊害を熟知していた
魏で宦官の被害が出なかった大きな理由は、魏の礎を築いた曹操が宦官の孫であり、その性質を熟知していた事が挙げられます。
曹操は、何進と袁紹が宦官を皆殺しにすると息巻くのを聞いて笑い、宦官は古来よりあるもので、権力者が寵愛し過ぎて権限を与えすぎたから現在があるのだ。その元凶を処断するだけなら一獄吏で足り、大事にする必要はないと断じています。
宦官の弊害は、宦官を皇帝が寵愛するから生まれると知っていた曹操は、宦官と皇太子が親密にならないように手を打ちました。
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曹丕に四友を配置する曹操
曹操は、後漢で宦官が専横を極めた原因を幼帝が続いて外戚が権力を奮い、それに対抗する為に成人した皇帝が使用人である宦官に接近し反乱を起こさせて外戚を排除する繰り返しが、宦官に多くの特権を与えたと考えました。
それならば、皇太子の時代から宦官以外にも友達を造ればよいと考えた曹操は、後継者に指名した曹丕に司馬懿、陳羣、呉質、朱鑠を四友として与えています。
これにより、孤独な皇帝に相談相手を与え、心の隙に宦官が付け込まないように配慮したのです。もちろん、魏では宦官が養子をとる事も政治に口を挟む事も禁止されていました。
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呉や蜀も採用した四友
さて、曹操が考えたのと同じ事を実は、呉も蜀もやっていました。
孫権は皇太子の孫登に、諸葛恪、張休、顧譚、陳表を学友として配置していますし、
劉禅については、諸葛亮が出師の表で郭攸之や董允、費禕、向寵の名前を挙げ、何事も3名に諮ってから決断するように念を押しています。
劉禅は若い頃から遊び好きで、宦官友達、いわゆる「宦友」が多いので孔明は宦官から引き離す事を考えて、四名を指名したようです。
この諸葛孔明のチョイスは功を奏し、劉禅のお友達の黄皓は董允が死去するまでは、ほとんど出世できなかったのです。
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