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2、3ヶ月もあれば準備はできたのではないか?
戦争の準備がどれほど大変なものなのか想像が難しいのですが、兵士だけでなく兵糧の手配や武器の用意、そしてそれらを用意するお金の準備を考えると2、3ヶ月はギリギリだったのではないでしょうか。
参考例として劉備が夷陵の戦いに赴いた際、号令をかけたのが4月で出兵をしたのが7月、つまり3ヶ月を要しているわけです。
この場合は大規模な遠征だったので、普段よりも準備期間が長かった可能性と劉備が急かした可能性どちらも考えられるものの、救援部隊の編成であればもう少し短い時間で準備ができるようにも思います。
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諸葛亮の誤算
諸葛亮は非常に有能な人物ではありますが、人を見る目はあまりないように思えます。
街亭での馬謖の失敗は特に有名ですが、李厳と廖立はいい加減な面があることを知りつつも重役を任せたり、
高く評価をしている他、楊儀と魏延の仲が悪いことにも手を打たず禍根を残したまま死んでいます。
つまり、人がどう動くかの予想が甘いということ。そうすると諸葛亮は援軍の準備はしていたものの、関羽が予想よりも早く捕らえられてしまい間に合わなかったのかもしれません。
例えば、上庸の孟達が援軍を送るだろう、荊州の各城が関羽を支援するはずだからすぐには落ちないだろうと計算していた。
ところが、孟達は援軍を送らず、宜都の樊友の降伏を皮切りに周囲の城が続々と陸遜に降り、あっという間に関羽の退路はなくなってしまったなどです。
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三国志ライターTKのひとりごと
筆者は学生時代に丞相ポジションになりたくて副会長や副委員長などサブポジばかりを狙っていた厄介な諸葛亮ファンです。そして、それ以上に関羽も好きなため、諸葛亮が援軍を送らなかった件は腑に落ちていませんでした。
また、世の中には関羽を見捨てた説も少なくないので、こういった説を考えてみたわけですが、実際に諸葛亮が荊州を捨てるような作戦を考えるとは思えません。それよりも計算違いだったという方がしっくり来るのですが、皆様はいかがでしょうか?
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