三国志演義の影響で諸葛孔明のライバルと言えば司馬懿ですが、史実では司馬懿が魏の総司令官として出てくるのは第三回北伐からです。
それ以前の総司令官は曹真で、彼は蜀の攻撃を防ぐだけではなく、積極攻勢に出て蜀を滅ぼそうと計画していました。ところが天候に泣かされ計画は頓挫してしまったのです。
今回は魏の大司馬曹真一世一代の大勝負、子午の役について解説しましょう。
子午の役をザックリ!
では、時間がない方のために子午の役についてザックリ解説します。
1 | 諸葛亮が出師の表を上表し魏への北伐を開始するが街亭・陳倉において敗退する。 |
2 | 諸葛亮、計略により武都郡と陰平郡を魏より奪取する |
3 | 西暦230年8月、魏の大司馬、曹真が連年の蜀の侵攻に対し、こちらから積極攻勢に出て蜀を滅亡させる計画を上奏。 |
4 | 諸葛亮は魏延に防衛を命じ、赤阪を自ら守り、李厳も漢中に駐屯させて防衛 |
5 | 曹真の本隊は子午道で大雨に祟られ桟道が崩壊し、思うように進軍できず、雨のせいで食糧が腐った。 |
6 | 朝廷は曹真が長雨で進軍に窮している事から退却を命令 |
7 | 曹真は洛陽帰還後重病となり、231年の3月に死去 |
以上がザックリとした子午の役の内容です。ここからは、子午の役について、より詳しく説明します。
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攻撃は最大の防御!曹真、蜀滅亡を画策
西暦230年8月、魏の大司馬曹真は、連年繰り返される蜀の北伐に苛立ち最大の防御策を提案します。それは、蜀が二度と北伐に出られないように、こちらから攻め込んで成都を陥落させる事でした。
実は、第一次北伐の時にも曹真は囮の趙雲、鄧芝の部隊を攻めてあわよくば壊滅させて、そのまま成都まで攻め上るつもりでしたが、この時は歴戦の名将である趙雲が巧みな退却により補給を守りつつ漢中まで退却したので果たせませんでした。
曹真は、漢中に攻め込むにあたり、数で劣勢の蜀軍の兵力分散を考え4方向から成都陥落を目指す事にしました。
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【北伐の真実に迫る】
南北と西から蜀に攻め込む
曹真は、司馬懿、張郃、郭淮にそれぞれ別ルートからの進軍を命じます。
1 | 曹真 | 長安より子午道を通って漢中を目指す |
2 | 司馬懿 | 西城より南下して漢水を遡上し南鄭で曹真と合流 |
3 | 張郃 | 斜谷を通過して漢中を目指す |
4 | 郭淮 | 武威郡より漢中を目指す |
特に司馬懿は南から攻めあがってくる形になり諸葛亮は厄介な南北対応を迫られる事になります。
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諸葛亮の防衛
諸葛亮の防衛策は、南から北上してくる司馬懿は陽動と見て反応せず漢中を目指してくる、曹真、張郃、郭淮に備える事でした。
漢中太守であった魏延をそのまま起用し、自身も赤阪を守り、李厳に2万人を与えて遊撃隊とし、李厳の子の李豊を江州都督として後方の守りを任せます。これは、北上してくる司馬懿に備えたものと考えられます。
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魏軍の攻撃
魏軍は先鋒の偏将軍夏侯覇が興勢まで到達しこれを包囲して屯営を置きます。これに対し、蜀軍が反攻して夏侯覇の軍に攻撃を仕掛けると夏侯覇は奮戦、その間に援軍が到来し蜀軍から逃れました。
北上を続ける司馬懿は、西城から山を切り開いて道を作る一方沔水を遡上させ、水陸から同時に進軍して朐忍に到着、新豊県を攻略し、軍を丹口に駐屯させたとされます。
しかし、順調に進んでいるかに見えた魏軍の中で、子午道を通過している曹真軍だけが不運でした。折からの長雨で桟道が崩壊、さらに長雨のせいで引き連れて来た補給隊の食糧が腐り、食糧不足に陥ったのです。
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