
過去には大英帝国として、世界の七つの海を支配したイギリス。日本と同じく島国であり、立憲君主国である事から明治維新前後の日本から多くの人々が渡英して西洋の新知識を吸収した国でもあります。
そんな馴染み深いイギリスですが、歴史というと部分部分しか知らない人も多いでしょう。今回のまるっと世界史は、海賊によって建国されたイギリスの歴史(中編)を解説します。
この記事の目次
大ブリテン王国への道
名誉革命後のウイリアム3世がメアリと共同統治した時代はイギリスが革命の時代から繁栄の時代に転換する重要な時期でした。まず、ウイリアム1世はカトリックの残党を討つ口実でアイルランドに出兵、さらにスコットランドに遠征軍を送って制圧し後の大ブリテン王国への道を開きます。
一方で宿敵となったフランスのルイ14世とはファルツ戦争ではオランダ総督としてドイツ諸侯・神聖ローマ皇帝・スペインなどとアウクスブルグ同盟を結成して戦い海上と陸上の戦いを優位に進め、北米においてはウィリアム戦争を展開します。
ウィリアム3世の財政革命
ウィリアム3世は、これらの対仏戦争の戦費調達の必要に迫られますが、従来の王のように国民に課税したりはしませんでした。その代わりに、1694年にイングランド銀行を設立し国債を発行する事に決定します。
一方的に国民から収奪するのではなく、国債の額面に応じた金利を支払って戦争に投資してもらうというウイリアム3世のアイデアは画期的でした。
特にイギリスは、何度も革命が起きる程国の財政に対する議会のチェックが厳く、債務超過によるデフォルトが起きる事がありませんでした。そのため、イギリス国債は6%内外の低金利にもかかわらず高い信用を得て飛ぶように売れ、イギリス国内のみならず外国の投資家もイギリス国債を保有したのです。
ウィリアム3世は当時、最も進んだ金融システムを産み出していたオランダの総督であり、イギリスに渡る際には軍隊と財政スタッフも従えていました。こうして、ウィリアム3世は多額の軍事費を低廉な金利で潤沢に集める事に成功し、税による軍資金調達に頼るスペインやフランスを追い落とし、七つの海の支配者へと駆け上っていくのです。
また、ウィリアム3世の時代、トーリー党とホイッグ党の中でいずれか多数を占めた方に内閣を組織させる政党政治の慣行が出来上がりました。
ルイ14世との抗争は続き、1701年にはスペイン継承戦争が勃発、イギリスはオランダ、オーストリアと三国同盟を結んで戦闘を開始しますが、1702年にウィリアム3世は落馬が元で死去。
そのためにオランダとの同君連合は解消され、イギリスはメアリ2世が単独で統治する事になります。メアリ2世とウィリアム3世の間には子供がなかったので、メアリ2世の死去後は、メアリの妹アンが女王として即位しました。
大ブリテン王国の成立と産業革命
1707年、アン女王の時代にイングランド王国はスコットランド王国を併合し、大ブリテン王国となります。そして1714年アン女王は跡継ぎに恵まれないまま死去、スチュアート朝は断絶。
イギリス政府はドイツからハノーファー選帝侯のジョージ1世を迎えハノーヴァー朝が開きました。
しかし、ジョージ1世は五十を過ぎた当時としては老人であり、英語も喋れなかったので、次第に政治への関心を失い政治については、内閣を組織している首班大臣が背負うという責任内閣制が確立し、「君臨すれども統治せず」の原則が完全に確立しました。
1701年に始まったスペイン継承戦争の講和条約として、1713年にユトレヒト条約が締結され、その付帯決議として、イギリスはフランスとスペインからアフリカの黒人奴隷を新大陸のスペイン領に運ぶアシエント(奴隷供給契約)の権利を譲渡されます。
これによって、イギリスは大西洋三角貿易で大きな利益を獲得する事になりました。
イギリスの産業、経済のあり方もこの18世紀に大きく変動します。国内統一市場が成立し、前世紀から続く海外発展は国内の生産と消費を増大させました。
17世紀から18世紀にかけて、イギリスにはインドから綿織物が輸入されるようになります。着心地がよく軽く、保温性に優れ、ガラも綺麗な綿にイギリス人は夢中になり、それまでの毛織物が廃れる事態になりました。
毛織物業者は政府を動かしてインドからの綿製品の輸入を禁止させますが、イギリス人は輸入できないなら自分で造ろうと考え1760年頃には、水力紡績機が発明され、安価で品質のよい綿織物が大量に生産されるようになります。
これが第一次産業革命でした。機械により産み出された良質な綿織物は、すぐにイギリス国内の需要をまかない、さらに海外に向かって売りさばかれるようになります。こうして海外貿易で蓄積された富がイギリス国内では工業への設備投資となり、産業資本が形成されていきました。
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第2次囲い込みで資本主義が確立
また、同時期に農業でも第二次囲い込みが発生しました。これは産業革命にともなう人口増加、及びナポレオン戦争による食料需要の増大により穀物価格が騰貴したのを受けて地主や農業資本家が小生産者の解放農地を囲い込んで土地を独占し、資本主義的農業をおこなおうとした事です。
これによりイギリス農業は、広大な土地を所有する地主が農業資本家に土地を貸与し、資本家が農業労働者を雇用する資本主義的農業経営が一般化しました。土地を追い払われた事で自営農業が失われ、多くの農民が土地を失い都市に流れ工場で働く労働者になります。
広く農民が賃金労働者として雇用される事で、原始的蓄積が進行し、資本家による労働者の雇用という資本主義社会に移行していきました。こうして産業革命の中から成長した産業資本家は従来の重商主義に反対して自由貿易を主張します。
加えて、当時の労働者は法律に守られず、長時間労働で悲惨な環境に置かれるなど労働者の貧困が社会問題化しました。
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植民地帝国とアメリカの独立
18世紀のイギリスは植民地の獲得も活況で、フレンチ=インディアン戦争の講和条約でアメリカ大陸にカナダを獲得し、インドにおいてもプラッシーの戦いでフランスとインド土豪軍に勝利して植民地化を進め、第一次植民地帝国を形成します。
17世紀のフランスとの植民地獲得戦争でイギリスは豊かな海軍力を駆使して勝利しましたが、その要因は前世紀のイングランド銀行の設置と国債制度、そして金融制度をいち早く整備して財政を安定した点に求められるでしょう。
しかし、度重なる戦争でイギリスは戦費調達を国債で維持できなくなり、アメリカの植民地に対しそれまでの放任を改めて課税を強化するようになります。
これにより、砂糖法や印紙法、茶法と立て続けにアメリカ植民州への課税を増やしたので、アメリカでは独立の声が高くなり、1775年、アメリカ独立戦争が勃発。
当初はイギリス軍に有利だった戦況も、フランスが独立軍を支援し、奥州から義勇兵の参加が続くと敗色濃厚となり、1783年のパリ条約でイギリスはアメリカの独立を承認しました。これにより北米の広大な植民地を失ったイギリスの第1次植民地帝国時代は終わりを迎えます。
ナポレオン戦争での勝利
1801年イギリスはアイルランドを併合、大ブリテン島とアイルランド島を一体化して「大ブリテン及びアイルランド連合王国」となります。名目は連合王国ですが、イギリスはブリテン島とアイルランドを統合した国家になりました。
19世紀の初頭はフランスとの第2次百年戦争<rtひゃくねんせんそうを継続し、ナポレオン戦争を展開、またナポレオンの大陸封鎖令に対抗して逆封鎖をしたので中立国アメリカ合衆国との間で1812年アメリカ=イギリス戦争が起こりました。
ナポレオン戦争の勝利に主要な役割を果たしたイギリスは、ウィーン会議で結ばれたウィーン議定書によりケープ植民地、マルタ島、スリランカ、イオニア諸島を獲得。この結果、イギリスのユニオンジャックの旗が世界の海に広がっていく事になります。
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イギリスの孤立主義外交
その後ウィーン体制諸国はロシア主導で保守化を強め、ラテンアメリカ諸国への介入を復活させ、それに反発したアメリカ合衆国がモンロー教書を出して反発。
イギリスはアメリカ合衆国を支持しますが、東方問題では対立、ギリシャ独立戦争ではギリシャ独立を支持しフランス・ロシアと共同で海軍を派遣してオスマン帝国海軍をナヴァリノの海戦で破り、1830年ロンドン会議でギリシャの独立は承認されました。
同年のフランス七月革命の影響で始まったベルギー独立ではパーマストン外相が独立を支持し、ベルギー中立化を実現して自国の安全保障とします。ベルギーはイギリスの対岸にあり、パーマストンはベルギーをイギリス防衛の橋頭保と考えました。
こうしてイギリスは次第に大陸のウィーン体制諸国とは距離を置き、圧倒的な海軍力を背景に孤立を恐れない独自の外交を推進していきます。
ヴィクトリア時代の到来
ジョージ3世の60年間に渡った統治が1820年に終わると、王位は息子のジョージ4世、さらにウイリアム4世に引き継がれます。しかしジョージ4世は多くの愛人を抱えるスキャンダルの巣窟であり、ウィリアム4世は若い頃は海軍士官を勤めた堅実な人物でしたがいかんせん65歳の老齢での即位。
スキャンダル国王と老いた新国王のコラボにイギリス国民の王室への関心は消え君主制は存続の危機を迎えました。しかし、1837年にウィリアム4世が死去して18歳の若々しい女王ヴィクトリアが即位すると国民は注目し、イギリス王室は持ち直します。
18世紀の60年代以降に本格化したイギリスの産業革命によって他に先駆けて工業化を達成し、特に1830年代から70年代のイギリスは世界の工場と呼ばれる高い競争力を持ちました。特に1837年から1901年までのヴィクトリア女王の時代は経済の繁栄と広大な海外植民地を誇り、第2植民地帝国とも言われています。
イギリスの圧倒的な海軍力に、他国は単独では対抗できず、世界はパックス=ブリタニカという相対的に安定した時代を迎えました。
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ピータールー事件
国内では議会政治が定着したものの19世紀初頭の議会は地主貴族が多数を占め政治は地主貴族の意向が反映されました。1815年ナポレオン戦争の終結で大陸からの安い穀物の輸入が再開されると、穀物価格が下落し地主貴族がダメージを受けます。
そこで当時政権を握っていたトーリー党は、小麦の価格が1クォーター80シリング以下の時は小麦の輸入を禁止する穀物法を制定しました。これは大地主の利益を守る名目の保護貿易であり、その為に穀物価格が高くなって消費者である都市住民や労働者の生活を圧迫。
1819年にはマンチェスターで8万人の労働者が集まり選挙法改正とともに穀物法反対を唱える大集会が開かれますが、政府は警察力で弾圧しピータールー事件が発生しました。
地主階級が保護貿易を望む一方で、産業革命を経て形成された産業資本家の中には自由貿易主義を主張する声も強くなりました。理由は穀物法で輸入が制限されると報復措置で工業製品の輸出が阻害されるようになるからです。
こうして資本家は自由貿易を主張し、都市住民は選挙法を改正して、庶民にも選挙権を与えるように要求。圧力を受けたホイッグ党のグレイ内閣は選挙法改正に踏み切り1832年には第1回選挙法改正が議会を通過します。
資本家対労働者の争い
改正により、腐敗選挙区など中世以来の弊害が取り除かれ産業資本家が選挙権を得ますが、労働者の選挙権は認められませんでした。こうして19世紀前半までの地主貴族対産業資本家という対立軸が産業資本家対労働者という図式に転換し、ヴィクトリア時代には、それが明確になり参政権を求める労働者は普通選挙を求めてチャーチスト運動を組織します。
1867年の選挙法改正で都市労働者に選挙権が認められ、1884年にはグラッドストン内閣が第三回選挙法改正をおこない農業と鉱山の労働者にも選挙権が与えられました。最終的にイギリスで男子普通選挙が実現するのは、1918年、婦人参政権は1928年の事です。
産業資本家の社会進出により、イギリスでは自由主義改革が進み、審査法の廃止、カトリック教徒解放法の宗教的差別の解消、1833年の奴隷制の廃止、東インド会社の商業活動の停止、1846年穀物法の廃止。1849年の航海法廃止と保護貿易政策の撤廃が相次ぎます。
1833年には労働者保護法である一般工場法が制定され、自由貿易主義に基づいた海外発展が進んでいきました。これは、イギリスの経済力が圧倒的に強く、国内法により産業を保護しなくて済んだ事が影響しています。
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独占資本と帝国主義
1760年代から本格化した綿工業中心の産業革命は促進し、19世紀には工場制機械工業が普及。マンチェスターやバーミンガムなどに工業都市が発展し、リバプールは工業製品の輸出港として繁栄しました。
1840年代には鉄道が急速に普及、蒸気船の普及と共に交通革命が起き産業の重点は、蒸気船や鉄道、工業部品を産み出す重工業に移行します。国内では市場が開拓され尽くした結果、企業の淘汰が始まり体力のない企業が資金力のある企業に吸収されていきました。
同時に供給の飽和による経済の深刻な不景気である恐慌も発生するようになり、倒産した企業が生き残った企業と合併されていきます。また、綿工業のような軽工業と違い重工業は必要となる資本が大きく、従来の商業資本はお金を貸し出す金融資本に支配されていき、独占資本がイギリス国内に幾つも誕生。
それがイギリス政府と結びついて1870年代には未開拓の市場を世界に求めて帝国主義の時代に入りました。その象徴が1875年のディズレーリ内閣によるスエズ運河会社買収であり、イギリスはさらに露土戦争に介入し、1878年のベルリン条約ではキプロス島の管理権を獲得し西アジアからインド一帯を支配する拠点とします。
インド支配の完成
18世紀後半より支配を固めたインドではセポイの乱などの大反乱を鎮圧してインドの植民地支配を完成。1877年にヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国を成立させました。
これに対し、インド国内では反英闘争が本格化していく事になります。ただ、自由貿易主義の理念からは、植民地を拡大するとコストが掛かるばかりなので、むしろ植民地を独立させて、経済を活性化し自由貿易に徹して利益を大きくしようと考える植民地不要論も存在しました。
しかし、帝国主義列強の世界分割競争からイギリスは離脱する事が出来ず、植民地支配を強化、拡大する方向に向かいます。同時に、経済格差が大きい国内政治に対する国民の不満、増大する福祉予算の確保。そして国民国家として高揚するナショナリズムを満たす手段としてイギリスは植民地獲得に邁進する道を選択する事になりました。
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拡大する植民地とドミニオン
19世紀末には、エジプトのウラービーの戦い、スーダンのマフディ教徒反乱の鎮圧、ケープ植民地によるブール人の国への侵略など植民相ジョセフ=チェンバレンを中心に帝国主義政策を展開。
1898年にはフランスとファショダ事件、1899年から1902年の南アフリカ戦争を引き起こし西アジアではトルコ、イラン、アフガニスタンに進出してきたロシアと対立し、1838年以降アフガニスタンに侵攻してアフガン戦争を起こして苦戦しつつも1880年アフガニスタンを事実上の保護国としてインド方面へのロシアの進出を阻止します。
東アジアでは、日清戦争で日本に敗北し弱体化が明らかになった清朝に対して、イギリスは列強と共に中国を分割、威海衛と九龍半島を租借、1899年にはクウェートを保護国としました。
帝国主義を進めていく一方でイギリスは、前世紀から続く白人入植地については自治を認める方向に転じ、1867年のカナダ以降、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦などに自治領(ドミニオン)としての独自政府を認めていきます。
同時にドイツなどと帝国主義的な対立が強まると、自治領との結束を強めるために1887年の第1回以降、植民地会議を開催していきます。
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パックス・ブリタニカの終焉
イギリスの帝国主義は、先進的工業力と広大な植民地を基盤として原材料を購入してイギリスで加工し、再び植民地で売りさばく形で繁栄していました。しかし、19世紀の中期になると産業革命を進行させたドイツとアメリカがイギリスに追いつくようになり、イギリス独占資本を上回る巨大な独占資本が両国で誕生。
イギリスはおびやかされ19世紀の末には工業生産世界一の座をアメリカに奪われ「世界の工場」の地位から没落します。ただ、イギリスは植民地からの富の蓄積による金融と優勢な海軍力を利用した海運業で繁栄し、なおも世界経済に大きな地位を占めていました。
イギリスは帝国主義的植民地膨張の世界政策として、ベルリン、ビザンティウム、バグダットに鉄道網を広げる3B政策を掲げるヴィルヘルム2世のドイツ帝国に対し、3C政策(カイロ、ケープタウン、カルカッタ)により植民地支配を維持しようとします。
イギリスはすでに1902年にロシアのアジア進出を警戒し、日英同盟を結んで単独外交を放棄していましたが、ドイツの台頭に対しても1904年には英仏協商、1907年には英露協商を締結して三国協商を結成。
ドイツ、オーストリアを軸とする三国同盟との勢力均衡を図りますが、これによりイギリスはバルカン問題を抱えるオーストリアとロシアの対立に巻き込まれる事になります。それはイギリスの繁栄を終わらせる第1次世界大戦勃発の序章となりました。
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社会運動と労働党の結成
選挙制度は1867年の第2回改正で都市労働者に、1884年の第3回改正で農村労働者に選挙権が拡大。労働者の大半は選挙権を獲得します。一方で資本主義の独占進行に伴い労働者に対する搾取は厳しさを増し、その中で労働運動にマルクスの社会主義も影響を及ぼしはじめました。
1884年、少数のインテリ青年が設立した社会問題解決を研究する団体を母体にウェブ夫妻がフェビアン協会を設立。さらに、1893年にはケア=ハーディが独立労働党を結成します。独立労働党には、労働組合などの組織が加わり、1900年に労働代表委員会を設立、1906年に労働党が誕生しました。
イギリスの社会主義政党は、選挙制度の改正もあり共産主義革命路線に進まず、次第に議会制民主主義が主流となっていきました。
ジャガイモ飢饉とアイルランド問題
17世紀のクロムウェルの征服以来、イギリスの最も近い植民地となっていたアイルランドでは、本国人の地主のもとでアイルランド人が小作人になる関係が続きアイルランド人の特に土地に対する不満が高まっていました。
特に1845年に発生したジャガイモ飢饉はアイルランドに100万人以上の餓死者を出し、生き延びる為に大勢のアイルランド人が海を渡り、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどに移民として移住していきました。
さらに、ジャガイモ飢饉はヴィクトリア女王即位直後のイギリス本土にも影響を与え、穀物法とともに穀物価格の高騰の要因となって労働者の生活を直撃。大地主の身勝手に嫌気がさした労働者は、選挙権の付与を求めるチャーチスト運動に参加し、アイルランドでも影響が波及しイギリスからの自治を求める政治運動が巻き起こります。
自由党政権のグラッドストンは、自由主義の立場から帝国主義に抑制的であり、アイルランドに一定の自治を認めようと考え、1886年アイルランド自治法案を議会に提出。
しかし、野党ばかりか自由党内からも連合王国の解体に繋がると批判が出て自由党が分裂するなど騒動が続き、アイルランドではイギリス本国に対する政治不満がくすぶり続けます。
20世紀に入ると1905年には自由党政権が成立し、アスキスらが労働党の協力の下で国民保険法などの社会改革を進めます。
またドイツとの建艦競争が始まると、ロイド=ジョージ蔵相は保守派の抵抗を抑えて富裕層への増税を実施、その過程で保守党の牙城である乗員の権限を弱めるために議会法を改正して法案採決での下院の優越を実現させるなど、現在の議会政治につながる改革を行いました。
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中編まとめ
立憲君主制が確立したイギリスでは議会の力が国王に優越し、財政の健全化と透明化が促進され、デフォルトのような放漫財政は起こらなくなり国債には高い信用が産まれます。
そこにオランダ総督ウイリアム3世が戦時公債の仕組みを持ち込み、イギリスは透明性が高い財政を強みに、公債で戦費を調達しオランダ及びスペイン、フランスとの植民地獲得競争に勝利します。イギリス国内では拡大した植民地に対し、足りない人手を補う為に産業革命が進行。資本家が大農場主のジェントリーを上回る勢力を持ちます。
ここから資本家の政治進出が進み、やがて公民権運動へと進展して選挙法が改正されますが、自主独立を求める運動はイギリスの植民地へも飛び火していくのです。
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