毌丘倹は西暦256年に毌丘倹・文欽の乱を起こし司馬師に鎮圧された人物です。
父である毌丘興と2代で異民族討伐に手腕を発揮。曹爽政権に属しつつも汚職とは無縁で、逆に高句驪討伐に成功して魏の領土を拡張。合肥新城の戦いでは諸葛恪を倒すなど有能な将軍でした。しかし高平陵の変で政権を握った司馬師に追い詰められて蜂起し残念な最期を迎えてしまうのです。
この記事の目次
異民族討伐プロ、毌丘興の次男として誕生
毌丘倹は字を仲恭と言い、河東聞喜の人です。父は毌丘興と言い文帝、曹丕の時代に武威太守となり、異民族の反乱を鎮圧して従え河右を開通し名声は金城太守蘇則に準じました。
毌丘興は蘇則と共に魏の武将で反逆者の張進討伐や胡賊の討伐で功績があり高陽郷侯に封じられました。さらに中央に召喚されて、宮殿や宗廟の造営を担当する将作大匠に任命されています。
毌丘倹は父の死後に爵を継いで平原侯文学となります。この平原侯と言うのは曹叡が皇太子になる前、格下げされていた頃の称号です。つまり平原侯文学とは曹叡の直属の配下という事で、やがて曹叡が曹丕の東宮(皇太子)となると曹叡に重用され、転出して洛陽典農校尉となりました。
ちなみに典農校尉とは、戸籍を別にされた民屯人民の労働を監督するポストで、曹丕の時代から典農校尉が私的な目的で民屯を搾取して富を得られるようになったので豪族羨望のポストとなり、後に政権を握った司馬懿が味方を増やす為に大いに活用したポストでした。
では、毌丘倹もそれを利用して富を得たのかというとそうでもないようで、逆に曹叡が諸葛孔明の死後に安心感から宮殿建築マニアになり、農民や士大夫に労役を強いるようになると、曹叡に上奏
「私が愚考しますに、現在天下で急いで排除すべきは呉と蜀の二賊であり、急いで整えねばならないのは衣食です。二賊も滅ぼせず人民が飢え凍えていると言うのに、宮殿をいくら華麗にした所で無益でありましょう」とキツイ諫言をぶちかまします。
孔明が死んだって蜀が滅んだわけでもねーのに、安心して調子のってんじゃねーよと曹叡は冷や水をぶっかけられた気分だったかも知れません。
その後、毌丘倹は荊州刺史に異動になりました。曹叡が耳に逆らう事を言う毌丘倹を栄転の形で洛陽から追い払ったと考えるのは穿ち過ぎでしょうか?
関連記事:137話:司馬懿の左遷と曹爽一派の独裁
幽州刺史となり公孫淵討伐に従軍
青龍年間(233年~37年)曹叡は遼東討伐を図り、毌丘倹に軍事と統率の才があると見て荊州刺史から幽州刺史へ異動し度遼将軍、使持節、護烏丸校尉に任命しました。父は西の涼州で胡と戦っていましたが、毌丘倹は東の幽州で鮮卑や烏丸と戦う事になったわけです。
毌丘倹は幽州の諸軍を率いて襄平に至り遼隧に駐屯。すると、かつて袁尚に従って遼東に走った右北平烏丸単于寇婁敦・遼西烏丸都督率衆王の護留がそれぞれ手勢5000人を引き連れて降伏しました。右北平烏丸単于寇婁敦は弟の阿羅槃らを洛陽に派遣して朝貢、魏は渠率の二十余人を封じて侯・王とし馬車や絹などを下賜しました。
この勢いで毌丘倹は公孫淵を攻撃しますが、遼隧の戦いで公孫淵に敗北します。曹叡は翌年に大尉の司馬懿を派遣し、中軍及び毌丘倹を支配下に入れて公孫淵を攻撃させ公孫淵を滅ぼしました。
毌丘倹は功によって安邑侯に進封され食邑は三千九百戸を与えられます。これは公孫淵討伐よりも、それ以前に右北平烏丸単于寇婁敦や遼西烏丸都督率衆王の護留を帰属させた功績が評価されたのでしょう。
関連記事:郭嘉の功績とはどんなもの?提案は慌てず、クールに決める!
関連記事:公孫瓚は異民族に特別厳しかったのか?
高句驪討伐に成功
公孫淵討伐では司馬懿に手柄を取られた形の毌丘倹ですが、正始年間(240年~49年)に大きな手柄を挙げます。
この頃、高句驪が王都を国内城(中国吉林省集安市)に移転。公孫淵に従い、魏と呉に服属しつつ叛いたり従ったりを繰り返していました。しかし、魏が公孫淵を滅ぼすと公孫氏の支配を逃れた高句驪の勢力が盛んになります。
魏は、高句驪に警戒心を持ち、楽浪・帯方両郡を復興して朝鮮半島の直接支配を目論みこうして毌丘倹は、歩兵と騎兵数万を動員して玄菟に出征し、諸道から進軍して高句驪の本拠地に迫りました。
高句驪王、宮は歩騎2万人を率いて沸流水のほとりを進軍し、梁口で魏軍と戦いますが度々敗れて敗走します。毌丘倹は、さらに高句驪の王宮がある丸都城を陥落させるべく、馬も車も通れないような悪路を進軍、丸都山を踏破して高句驪の王都を攻め滅ぼし斬首と捕虜は千を数えました。
ここで毌丘倹は、高句驪人民の反発を招かないように墳墓を破壊せず樹木を伐採せず、敵兵の妻子を捕らえたら解放するように命令します。こうして、人民の支援を得られなくなった宮は単独で妻子を率いて逃亡。毌丘倹は一度帰還しました。
西暦245年、毌丘倹は、再び高句驪を攻撃。高句驪王、宮は逃亡して姿を消し、毌丘倹は玄菟太守王頎に追撃をさせますが、ついに捕らえられませんでした。この時の討伐で斬首したり降伏を許したものは八千人あまり、毌丘倹は平定を済ませると開削工事をして農業用水を確保したので人民は恩恵を受けたようです。
関連記事:武臣政権とは?朝鮮半島にも武士がいた!【まるっと世界史】
関連記事:スサノオは朝鮮半島から来た!?三韓と出雲の連合構想とは
合肥新城の戦いで諸葛恪を撃退
父親さながらに異民族討伐で功績を積み上げた毌丘倹は左将軍に至り、佳節監豫州諸軍事として豫州刺史を兼領。転じて鎮南将軍となります。
この頃、諸葛誕が東関で戦った時に勝利しなかったので諸葛誕と毌丘倹に命じて任地を交換。諸葛誕が鎮南将軍となって豫州を都督し毌丘倹が鎮東将軍となって楊州を都督します。呉の諸葛恪が合肥新城を包囲すると毌丘倹は文欽と共にこれを防御。太尉司馬孚が中軍を率いてて包囲を解き、諸葛恪は退却しました。
西暦250年代になると、魏では将軍と土地は切り離され、任地を簡単に交換するような事も可能になっています。これは毌丘倹世代の将軍が、例えば劉備や曹操のような叩き上げで配下の私兵団を個人のカリスマで統率していたのとはまるで違う、強力な中央集権時代を生きていた事実を物語っています。
そしてそれは、反乱を起こすには極めて不利な要素でした。
関連記事:司馬師ってめちゃくちゃ天才だったのでは?三国時代を終わらせた司馬師の「地味な天才っぷり」をまとめてみた
関連記事:歴史書『三国志』の曹植のモデルは司馬師の養子である司馬攸だった?
毌丘倹・文欽の乱へ
毌丘倹はかねてから夏侯玄や李豊と交友していました。それはつまり、毌丘倹が曹爽一派に近かった事を意味しています。
さらに毌丘倹は曹爽と同郷という事で随分良い思いをし、その反動で司馬氏政権では冷遇され、不満をため込んでいた文欽を仲間に引き込みました。これは高平陵の変で司馬一族が曹爽を追い落とし、さらに少帝を廃帝とし司馬師が権力を握った事に対する危機意識でしょう。
毌丘倹は文欽を抱き込んで西暦256年正月、たまたま出現した彗星を吉兆の印とし、郭太后の詔を偽造して大将軍司馬師を批判する文書を書いて挙兵しました。しかし朝廷は司馬師に逆らう事無く毌丘倹と文欽は朝敵となります。
毌丘倹は、淮南の将や所々の別陣地を守る者や大小の吏民を武力で脅迫し寿春城に連行すると、城の西に祭壇を築いて生贄を殺し、老弱を分けて城を守らせ文欽と5~6万人の軍兵を率いて淮河を渡り、西の方の頂に到達しました。
ここで毌丘倹は城を固く守り、文欽は外に出て遊撃兵となり、当然、長江を越え呉から援軍がやってくるのを待つ構えになります。しかし、最初から呉の援軍を期待する時点で、毌丘倹の反乱の成功が覚束ないものである事は明白で、自ら叛いたというより、司馬師に叛くように仕向けられたのではないかと考えてしまいます。
また、兵力にしても脅迫しないと集まらないレベルであり、積極的攻勢に出るには程遠い士気だったのでしょう。持久し呉の援軍を得て乱が長引けば、司馬師の横暴に兵を挙げる者はほかにもいる筈と毌丘倹は考えたのかも知れません。
関連記事:鄧艾とはどんな人?鍾会に陥れられ衛瓘の指図で殺された鍾会の乱の犠牲者
関連記事:司馬懿の息子は司馬師・司馬昭以外どうして変人・悪人バカだらけなの?
魏の大軍に押しつぶされる毌丘倹
毌丘倹が叛いたと聞くと司馬師は中軍と外軍を率いてすぐに行動を起こします。最初に諸葛誕に豫洲の諸軍を率いさせて安風津より寿春に向かうと擬態させ、胡遵には青州と徐州の諸軍を率いさせて譙・宋の間に出撃し退路を断たせます。
こうして司馬師は汝南に駐屯し監軍の王基には前鋒諸軍を率いさせて南頓に拠って待機させ、全軍に対し積極攻勢を禁じました。膨大な司馬師の軍勢に包囲された毌丘倹と文欽は進んでも戦えず、退却しようにも寿春が奪われる事を恐れて帰れず成す術を失います。
毌丘倹の率いる淮南の将士の家は皆、淮北にあり、投降者が相次いでいき、ただ淮南で徴集した農民だけが地元なのでようやく働ける程度でした。
司馬師は毌丘倹の士気を挫こうと、兗州刺史鄧艾を派遣して泰山諸軍の万人余りを率いて楽嘉に至らせ、あえて弱い振りを見せて文欽を誘います。文欽はこれを知らずに鄧艾を少数と見て夜襲を掛けますが、夜明けになり司馬師の本軍が近づいている事を知り仰天し退却を開始。
司馬師がこれを見逃す筈もなく、精鋭の騎兵を放って追撃し文欽は破れて逃走します。毌丘倹は文欽が敗れたと聞くと、恐れ慄いて夜中に城を抜け出して逃走し、軍は崩壊しました。
逃げる毌丘倹の下からは兵士がどんどん離れていき、毌丘倹は弟の毌丘秀、そして孫の毌丘重と水辺の草の中に隠れますが安風津都尉の部民、張属が、潜伏情報を得、毌丘倹を遠くから射殺しその首を洛陽にもたらしました。哀れ名将毌丘倹、最期は華々しく戦って討ち取られるのではなく名もなき部民の矢に倒れたのです。
関連記事:【孔明死後の三国志に詳しくなろう】司馬師打倒の兵をあげた毌丘倹の反乱はなぜ失敗したの?
関連記事:ダメ親父文欽が司馬師に勝てるチャンスを逃していた?
三国志ライターkawausoの独り言
毌丘倹の乱と言いますが、そのお粗末な最後を見ると毌丘倹が自ら望んで叛いたのではなく司馬師の計略により、その方向へ追い込まれたと考える方が自然な感じです。
確かに毌丘倹は、腐敗した曹爽一派に連なる人だったかも知れませんが、当人は洛陽で退廃した政権運営をしていた曹爽一派とは逆に高句驪討伐を果たして魏の勢力拡大に貢献し、現地の灌漑の整備にも尽力した名将軍でした。しかし、戦争には強くても権謀術数には疎い毌丘倹は結局は司馬師の敵ではなく反逆者として歴史の闇に沈んでいく事になりました。
関連記事:毌丘倹(かんきゅうけん)とはどんな人?朝鮮半島に進出し倭も吸収合併を目論んでいた?
関連記事:文欽・毌丘倹の反乱を鎮圧することができたのは傅嘏の進言があったからこそ?