五虎将軍亡き後、蜀の有力な将軍として北伐でも重きを為した魏延。
しかし、魏延は五丈原の戦いの最中に病死した諸葛亮の退却命令に従わず楊儀と政治闘争を繰り広げた結果、南谷口を封鎖して、退却してくる王平の軍に襲い掛かりますが王平の一喝で魏延の部隊は腰砕けになり敗北し、魏延も一族だけを引き連れて帰還する途中に馬岱に斬られて最期を遂げました。
ですが百戦錬磨の魏延の軍は、どうして王平の一喝で崩壊したのでしょうか?
この記事の目次
魏延が五丈原の後に滅亡した理由 ザックリ
では、最初に忙しい人の為に、魏延が五丈原の後に滅亡した理由をザックリ解説します。
① | 孔明が五丈原で死去。遺言で撤退が命令されるが魏延には命令が届いてなかった。 |
② | 費禕が魏延に退却を継げるが魏延は丞相府の連中だけで退却しろ!と拒否 |
③ | 遺言で後を託された楊儀は全軍をまとめ幕舎を引き払い退却準備 |
④ | 魏延、孔明は犬猿の仲の楊儀を後継者に指名したと考え滅亡を免れようと、
前面の司馬懿を無視して、独断で退却を開始し楊儀を通せんぼする。 |
⑤ | 司馬懿、住民の通報を受けて蜀軍を追撃するが楊儀が旗指物を返し軍堤鼓を打って
抗戦意欲満々なのを知り進撃を停止する。楊儀はその間に退却を開始。 |
⑥ | 魏延は南谷口で蜀軍を待ち受けるが兵の士気は低く、王平の一喝で四散。
やむなく魏延は一族だけで漢中に落ちようとし追撃してきた馬岱に斬られる |
以上がザックリした魏延が五丈原後に滅亡した理由です。ここから先は、それぞれをもう少し詳しく見ていきましょう。
魏延が兵士の信望を失った理由
魏延の軍勢は魏延が自ら鍛えた精鋭部隊であり、実際に五丈原の戦いでも渭水を挟んで司馬懿の軍勢と対峙していました。諸葛亮も魏延を前鋒として最も勇敢な将軍として使っていますし、前衛という事は退却する時には殿を務める可能性が高くなります。
このような鉄の軍団が退却戦の途中とはいえ、王平の一喝で一度も戦わない間に敗北するというような事はないと思いませんか?
そこで、五丈原から退却する前後の魏延の行動を見てみると意外な事が分かりました。
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禁断の敵前逃亡をした魏延
魏延が部下の信頼を失った最大の原因は敵前逃亡をしてしまった事です。諸葛孔明が病没した後、丞相府幕僚である楊儀や費禕や姜維という面々は孔明の遺言を奉じて退却を決意しますが、この遺言は魏延には知らされていませんでした。
そこで、費禕が魏延を尋ね孔明が死に退却の遺言が出た事を知らせますが魏延は
「丞相が死んだだけの事でどうして退却せねばならないのか?
また、私が楊儀如きの指揮下に入り殿を務めねばならぬとはどういう了見か!」
このようにキレて、退却するなら丞相府の面子だけで退却せよと言い捨て費禕と共に残る部隊と帰る部隊を取り決めした上で費禕を送り返しました。
表面上費禕は、魏延の提案を受け入れるフリをしますが実行せず、魏延が退却に納得しないなら放置せよという孔明の遺言通りに幕舎を引き払い全軍退却を開始します。
これを偵察兵の報告で知った魏延は費禕を帰した事を激しく後悔、先回りする為に無断で自軍を引き上げて撤退を開始しました。
この時、渭水を挟んで前面には敵総大将の司馬懿がいましたが、魏延は構う事なく、楊儀等よりも漢中まで先回りする事を優先し退却します。
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【北伐の真実に迫る】
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