河北平定戦での活躍
その後、郭嘉が活躍をみせたのが河北の平定戦でした。官渡の戦いで袁紹を破った曹操でしたが、その後も袁家が河北に勢力を維持していました。
特に、袁尚・袁煕は遊牧民の烏桓と手を組んで曹操に反抗していました。
曹操は烏桓討伐を計画しますが、諸将ははるか北方の烏桓を攻めている間に荊州の劉表と劉備が南から攻めてくる可能性があるとして、烏桓討伐に反対します。
しかし、郭嘉は劉表が劉備を使いこなす器量がないこと、そして「兵は神速を貴ぶ」と言い、袁尚・袁煕らの体制が整う前に攻めるべきであると主張しました。この「兵は神速を貴ぶ」は以降も、兵法の基本原則として語り継がれました。
そして、郭嘉の進言を受けて烏桓を攻めた曹操は烏桓を大いに破り、袁尚・袁煕はさらに東の公孫康の下に逃れます。
ここで、諸将は公孫康討伐を主張しますが、郭嘉は「何もせずとも我々と争いたくない公孫康は袁尚・袁煕の首を届けてくるだろう」と言い、許都への帰還を主張します。果たして、間もなく袁尚・袁煕は公孫康によって殺されました。このように、河北平定戦は郭嘉の優れた軍略が際立った戦いとなりました。
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郭嘉の死
しかし、河北平定の直後の207年(建安12年)、郭嘉は突如病に倒れ、わずか38歳で急死してしまいます。
曹操は郭嘉の死を悲しみ、「天下泰平の暁には、後事を彼に託すつもりだった」とまで言ってその死を悼んでいます。
その後、208年(建安13年)に曹操は赤壁の戦いで劉備・孫権に敗れ、天下統一に失敗しました。この時、曹操は「郭嘉がいればこのような無様な負け戦はしなかっただろうに」と悔やんでいます。
このように、郭嘉は曹操の軍師たちの中でも、際立った軍略の才を持っていたといえるのではないでしょうか。
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三国志ライターAlst49の独り言
いかがだったでしょうか。郭嘉は曹操の軍師たちの中でもひときわ若く、それでいてひときわ早くに亡くなっています。従って、郭嘉が曹操の下で活躍したのはわずか数年でした。
しかし、郭嘉はその天才ぶりを示す様々なエピソードが正史に残っており、曹操の配下の中では、荀彧や賈クらに勝るとも劣らない智謀の持ち主だったのではないでしょうか。
もし郭嘉が長生きしていたら、ひょっとすると曹操が天下を統一できたのかもしれませんね。郭嘉とは、歴史には禁物のそんな想像さえかき立ててしまうような名軍師なのです。
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