「三国志」は戦いを描いた作品ですので、当然ながら我々は、多くの登場人物の死を目の当たりにすることとなります。
そこで、今回はそんな「三国志」の登場人物の中でも、特に悲惨な死を遂げた人物を3人挙げ、彼らの死について解説していきたいと思います。
悲惨な死を遂げた人物1人目:馬騰
馬騰は蜀の「五虎大将軍」の一人である馬超の父として有名です。『三国志演義』での馬騰の最期は次のように描かれています。
勤王の士であった馬騰は後漢の献帝を蔑ろにし、朝廷を私物化する曹操に反感を持ち、劉備や董承らと組んで曹操を倒す計画を立てますが、計画は事前に発覚してしまい、馬騰は一族ともども曹操に処刑されてしまいました。
この『三国志演義』の記述だけでも、馬騰はかなり悲惨な最期を遂げていますが、『正史三国志』に書かれている馬騰の最期はさらに悲惨なものです。『正史三国志』によれば、馬騰の最期は以下のようなものです。
208年(建安13年)、荊州遠征を計画していた曹操は涼州の馬騰が離反して自らの背後を衝くことを恐れ、朝廷を通じて馬騰を召喚し、馬騰とその一族にことごとく官位を与えて懐柔しました。そのうえで、曹操は馬騰とその一族を自らの本拠地である鄴に移しますが、これらの措置に馬騰は難色を示しつつも従っており、馬騰には曹操と争う意志はなかったと思われます。
しかし、涼州に残った馬騰の子である馬超は、父や一族が曹操の下にいるにもかかわらず、211年(建安16年)に反乱を起こします。
馬超と曹操は激しい戦いを繰り返しますが、その中で馬超の反乱に激怒した曹操は馬騰とその一族をことごとく殺害してしまいました。つまり、『正史三国志』によれば、馬騰はある意味、息子の馬超に裏切られて非業の死を遂げてしまうのです。
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悲惨な死を遂げた人物2人目:袁術
「三国志」の中で、悲惨な死を遂げたことで特に有名な人物は袁術ではないでしょうか。
袁術は袁紹と同じ漢の名門である袁家の出身であり、袁紹と共に反董卓連合を組織し、反董卓連合の崩壊後は孫堅・孫策と協力して長江一帯に一大勢力を築いた武将です。
袁術の最期はよく知られているところですが、『正史』によればその最期は以下のようなものでした。
袁術はかねてより自らが後漢の皇帝に代わって帝位に就く野望を持っており、197年(建安2年)にはついに皇帝を自称し、「仲」王朝の建国を宣言します。
しかし、正統性に欠けたこの行動は人々の反感を買い、特に後漢の献帝を奉じる曹操はこの暴挙を許さず、各地の群雄と共に袁術を攻めます。
袁術は呂布と同盟を結んで対抗しますが、呂布の死後は一気に勢力を失い、ついには同族の袁紹を頼って河北へ逃れようとします。しかし、曹操は劉備に命じて袁術を追撃させ、袁術は劉備に敗れて河北への亡命に失敗します。
ここに至って進退窮まった袁術は部下にも次々と叛かれ、ついには食糧にも事欠く有様にまで落ちぶれてしまいます。そして、追い詰められた袁術は暑さをしのぐために蜂蜜入りの飲み物を求めますが、当然そんなものはありません。
その知らせを受けた袁術は絶望し、「この袁術ともあろう者がこのざまか!」と吐き捨てると、大量の血を吐いて死んでしまいました。
自業自得な側面が強いとはいえ、袁術の死は、一代で大勢力を築いた英雄の死としてはあまりにもあっけないものでした。
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悲惨な死を遂げた人物3人目:陸遜
そして、悲惨な死を遂げた人物のうち、最後の一人に挙げられるのが呉の陸遜です。
陸遜と言えば、周瑜・呂蒙なき後の呉を支え、夷陵の戦いでは劉備の侵攻を撃退した呉の英雄です。
しかし、『三国志演義』では夷陵の戦い以降、陸遜はほとんど登場しません。陸遜の最期は主に『正史三国志』に描かれているのですが、その最期は悲惨なものでした。
夷陵の戦いの後も、陸遜は将軍として呉を支え、孫権が皇帝となってからは「上大将軍」の称号を与えられ、呉の全軍を統括する存在でした。しかし、晩年の陸遜は呉の宮廷における権力闘争に巻き込まれてしまうことになります。
241年(赤烏4年)、孫権の長男であった皇太子孫登が死去します。
孫権は孫登の遺言に従って孫和を次の皇太子としますが、孫権は孫和の弟である孫覇を寵愛しており、孫覇にも孫和と同等の待遇を与えてしまいます。
これにより、呉の宮廷では孫和・孫覇のそれぞれに与する貴族たちが派閥を形成し、権力闘争が始まってしまいました。このとき、陸遜は皇太子の孫和を支持し、孫覇を寵愛する孫権を幾度も諫めます。
これにより、すでに年老い、往年の剛毅さを失っていた孫権は次第に陸遜を疎んじるようになってしまいます。そして、これを機に孫覇派の貴族たちは陸遜を讒言し、孫権はこれを真に受けて陸遜を幾度も詰問します。
これに憤慨した陸遜は、間もなく憤死してしまいます。救国の英雄であり、呉に長年尽くしてきたにもかかわらず、耄碌した主君が佞臣の讒言を真に受けたために、憤死に追い込まれた陸遜の最期は、「悲惨」というしかありませんね。
三国志ライターAlst49の独り言
いかがだったでしょうか?
「三国志」では様々な人物の活躍と死が描かれますが、中にはこのような悲惨な死を遂げたものたちもいたのですね。華々しい活躍を遂げた英雄であっても、悲惨な死という運命を避けることができなかった、というこれらのエピソードを見ると、世のはかなさというものをしみじみと感じさせられます。
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