蜀の土地は正に天然の要塞でした。何せ周囲を高い山々に囲まれ、大国の魏も攻めあぐねておりました。
魏の超名将(個人の感想です)曹真さえも落とせなかったという経験から、蜀の堅牢さが分かるというものです。しかしそんな蜀に甘寧一番乗り!して落とした武将がいます。
それこそが鄧艾。今回は彼の中々に数奇な人生を見ていきたいと思います。
鄧艾の貢献
生まれは棘陽県であり、若い頃から知略と武勇に優れたとても優秀な人物だったと言われています。彼の最もな功績としては蜀平定が挙げられますが、それだけではありません。
屯田制と運河開通、地図作成能力など様々な面で活躍した鄧艾は、各地の水害対策を行い、国への貢献をしました。かなり強情、短気な面もあったものの、部下にも慕われていたと言います。
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鄧艾による蜀平定
そんな鄧艾がその名を高めた、ある種、鄧艾の人生のターニングポイントであったのが蜀平定です。三国志の名の通り、国は三つに割れました。しかしその力は決して拮抗していたということはなく、魏は一番の大国となっていました。
そんな魏が蜀を攻撃してもどうしても上手くはいかない。何とか漢中を越えていけてもその先で攻めあぐねて退却……そんな中で大活躍したのが鄧艾です。過去に皇室の一族が失敗していたことも踏まえて見ると、この功績の大きさは計り知れなかったでしょう。
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「やはり山に登るのか、私も同行しよう」
馬謖In!……というのは冗談ですが、鄧艾の活躍のポイントは山に登ったこと。といっても別に山に陣を引いて成功したとかではありません。
鄧艾は敢えて堅牢な山に登るルートを通り、谷があれば橋をかけ、時に筵で体をまいて崖を降りたりするなどして険しい天然要塞を突破。
この凄まじいルートを通って蜀を落とし、劉禅を降伏までさせたのが鄧艾なのです。
鄧艾の斜陽
しかしそんな蜀平定こそが、鄧艾の人生のターニングポイントでした。蜀の平定の後から鄧艾は何度も独断専行を繰り返すようになります。
このため鄧艾は謀反人として都に更迭されることになるのですが……悲惨なことに、彼は護送中に殺害されてしまいました。鄧艾の子も連座して処刑され、妻と孫たちは流罪となります。蜀平定の功労者は、一転して謀反人となってその生涯を終えたのです。
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再び、一転
さて、再び事態が変わってきます。まずは265年、この時に時代は既に晋。皇帝となった司馬炎は「鄧艾は功績を誇るあまりに節度ある態度を失った。このため大罪を起こすような事態に陥った。しかし情状酌量の余地はある」と判断。鄧艾の妻と孫たちは帰還してよいとなり、後継者を絶やすことはなくなりました。そして二年後、更に段灼という人物が動きます。
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