三国志の終わりは、皆さんはどこで感じ始めますか?
個人的に三国志演義で話すとするなら、筆者は関羽の死から、じわじわと感じ始めます。
英雄たちの時代が終わる……三国志が終わる……終わってしまう……そんな喪失感を感じる中で、突如現れ輝くは流星の如し。それこそが文鴦です。今回はこの文鴦についてちょっとお話しましょう。
司馬師との戦い
文鴦の父、文欽は魏の名将、諸葛亮の北伐を何度も防いだ名将、名将(くどい)の曹真将軍の息子、曹爽の部下でした。
曹爽が司馬懿によって殺されたことで、カン丘倹と文欽は反乱を起こします。
この戦に参加した文鴦は当時18歳でしたが、夜討ちの挟撃を司馬師の軍にかけることを提案。しかしこれが失敗して退却する際に、司馬師の追撃を僅か10騎余りで蹴散らしました。
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呉への亡命を決意する文鴦親子
文鴦は善戦したものの、父である文欽は敗北。弟も含む親子三人はそのまま呉に亡命します。
因みにこの文鴦の活躍にびっくりした司馬師が目の下のこぶから眼球が飛び出して死んだ、とかこっちがびっくりエピソードがあります。
ともあれ呉に亡命した後、諸葛誕が反乱を起こします。この救援として親子たちは寿春に向かいました。
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父の殺害、魏への投降
しかしここで文欽と諸葛誕が不仲、幾人もの魏への投降者が出てしまい、追い込まれます。兵糧不足の対策に文欽は兵士を一部場外に出そうと提案しましたが、これを文欽の寝返りと思った諸葛誕によって文欽は殺されてしまいました。
このため、文鴦と弟、文虎は今度は魏に投降。一部からは処刑しろと声が上がるも司馬昭は彼らを迎え入れ、兵を与えます。
「文欽の子である私が殺されないのだ」
文鴦の呼びかけによって動揺した諸葛誕は決戦を決意するも、討ち死。ここに諸葛誕の反乱は終わりました。
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群雄割拠時代の終わり
こうして父の亡骸を受け取り、埋葬まで済ませた文鴦。魏の将軍として爵位まで与えられ、その勇名を轟かせるようになりました。しかし時代は晋へと動きます。
司馬炎に疎まれた文鴦、時代は流れて彼は八王の乱の前に諸葛誕の外孫に三族皆殺しにされます。こうして文鴦はその生涯を終えるとことなりました。
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