陳寿は正史「三国志」の著者です。彼は三国志を記すにあたり、各人物の「伝」(伝記)に「評」といって各人の評価を書いています。
陳寿はもともと蜀に仕えていた人ですが、その蜀末期の中心人物「姜維」についての評価はとても気になります。今回の記事ではそんな陳寿の姜維評と陳寿という人物にも触れてみます。
姜維の生涯
姜維は現在でも評価が分かれる人物ですが、その生涯を正史「三国志」から探ってみます。彼は涼州の天水地方に生まれ、かの地の豪族の出身でした。始めは魏に仕えていましたが、諸葛亮の北伐の際に蜀に降伏しています。
その後は諸葛亮にその才能を高く評価され、徐々に蜀軍で存在感を増していきます。諸葛亮亡きあとは蔣琬、費禕が蜀の実権を握り、内政中心の政治を行います。
姜維は度々大規模な北伐を計画していましたが、蔣琬、費禕が存命の内は大きな戦をすることはできませんでした。
しかし彼らが亡くなった後、軍権を握った姜維は度々大規模な北伐を決行。時折戦果を挙げたものの、魏を倒すことは出来ず、蜀の国力を疲弊させていきます。
宮廷では宦官が力を持ち、国内は乱れていきます。そんな中、魏が蜀に侵攻し、蜀は滅亡。
姜維は魏に降伏した後、反乱を計画しますが失敗し、殺されてしまいます。
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【北伐の真実に迫る】
陳寿の姜維の評価は?
「三国志姜維伝」の最後に陳寿は姜維をこのように評価しています。「姜維は文武に優れ、志は高かったが、やみくもに軍を動かし、結果的に蜀の滅亡を早めた。
老子(紀元前6世紀ころの道教の始祖)は言った。“大きな国を治める時は、小魚を煮る様に無闇にかき回さずじっとしたほうが良い。”(大国を治むるは小鮮を烹るが若し)蜀は小さな国だったのに、しばしばかき回すのはいかがなものだろうか?」と、厳しく姜維の事を評価しています。
陳寿は「三国志」において、淡々とその人の業績を記しているのですが、最後の「評」では感情的になることもあるようです。
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正史「三国志」の作者「陳寿」とは?
陳寿は「三国志」の著者ですが、三国志には陳寿本人の「伝」はありません。例えば「司馬遷」の「史記」にも本人の伝記がありますし、他の歴史書にも著者の列伝があることが多いので、これは珍しいことと言えます。
陳寿の生涯はのちに編纂された「晋書」によって知ることが出来ます。陳寿は益州の出身で、初めは蜀に仕えていました。しかし、父の喪中に体調を崩し、薬を作らせましたが、これが「親不孝だ」と言われ、あまり出世できませんでした。
これは当時の儒教の精神で、「親の喪中に自分の身を労わるなど親不孝である。」という今では理解しがたい価値観があったからでした。
蜀滅亡後もこの評判のせいでなかなか仕官できませんでしたが、かつての同僚「羅憲」によって推薦され、司馬炎の「西晋」に仕えることが出来ました。そして数々の歴史書や地方史を編纂しそれが高く評価され、「三国志」の編纂につながりました。
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姜維と陳寿、接点はあったのか?
姜維に対して辛辣な評価をした陳寿でしたが、二人の接点はあったのでしょうか?
姜維が蜀に仕えたのは228年ころで亡くなったのが蜀滅亡の1年後の264年です。一方陳寿が蜀に仕えたのは正確には不明ですが、陳寿の生まれが233年ですので、250年前後には蜀に仕官し、蜀滅亡まで10年くらいは働いていたと考えられます。
と、いうことは姜維がバリバリ北伐を決行していたころ陳寿はそれを宮廷で見ていたことになりますね。陳寿は蜀で司書のような仕事をしていたそうで、姜維と直接会っていたかどうかは微妙ですが、恐らく彼の評判は大いに聞いていたでしょう。
陳寿は宮廷の混乱ぶりや国の荒廃も感じていたでしょうから、それが姜維への辛辣な評価につながったのかもしれませんね。ただ、陳寿は宮廷の宦官と対立し、成都から左遷されていた、という話もあります。
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別れる姜維への評価
陳寿は姜維を辛辣に評価しましたが、他の人の姜維への評価は分かれています。
例えば三国志に「注」(追加の文章)を付けた「裴松之」は三国志本文での姜維の失敗に対して、ことごとくそれを擁護するような文を注釈としてつけています。これらの文章はのちの小説「三国志演義」の基になったと考えられます。
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三国志ライターみうらの独り言
陳寿は姜維に対して厳しい目をしていたようですが、それは自分の職場を乱されてしまった姜維に対しての嫌みも若干あったかもしれません。一方自分を推薦してくれた「羅憲」に対しては絶賛しています。「三国志」本文では陳寿の肉声は殆ど感じられませんが、このようなことから陳寿の人柄が少しだけ感じられますね。
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