鄒靖とはどんな人?黄巾の乱時に劉備を起用した大恩人の生涯を解説

2021年10月23日


 

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生徒に勉強を教える盧植

 

劉備の恩人と言えば、盧植(ろしょく)水鏡(すいきょう)先生という人が多いと思います。

 

鄒靖

 

しかし劉備が傭兵隊長として世に出るきっかけと造った人物としてはこの鄒靖(すうせい)も忘れてはいけない人物でしょう。彼がいなければ劉備のデビュー戦は違ったモノになったかも知れないからです。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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鄒靖はどんな人ザックリ!

人形劇三国志の語り手風 kawausoさん、おとぼけさん

 

では最初に鄒靖はどんな人かについてザックリと解説しましょう。

 

鄒靖は、200名の兵士を率いる校尉。

黄巾の乱時に義勇兵を率いた劉備を配下に加え各地を転戦。

討伐に功績があった劉備を安熹県尉に推挙したと見られる

劉備と別れた後、韓遂(かんすい)辺章(へんしょう)の乱で皇甫嵩(こうほすう)配下の北軍中侯として従軍。

増援として烏桓兵ではなく鮮卑兵を提唱し、意見は朝廷まで上がるが

応劭(おうしょう)が反対し隴西(ろうせい)羌胡(きょうこ)を援軍にすると決定。

ここでやってきたのが羌胡に顔が広い復権した董卓(とうたく)である。

西暦188年の張純(ちょうじゅん)の乱に劉虞(りゅうぐ)の配下として従軍。胡族に包囲されるが

公孫瓚に救出された。同じく公孫瓚の配下になっていた劉備と再会できたかは不明。

三国志演義では義勇兵募集の高札(こうさつ)を提案。桃園の誓いは鄒靖なしには

成立しない重要な役どころとなる。

 

以上がザックリした鄒靖の生涯です。ここからは、もう少し詳しく鄒靖について解説していこうと思います。

 

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曹操孟徳

 

 

 

劉備のデビュー戦

劉備の黒歴史

 

先主伝によると鄒靖は、200名を率いる部隊長である校尉で黄巾の乱時に義勇兵を挙げた劉備を配下に組み込んで黄巾賊と戦ったとあります。

 

この戦いで劉備は手柄を立て安熹県尉(あんきけんい)に昇進しましたので、趨靖の口利きもあったのではないかと考えてしまいます。県尉なんて田舎の警察署長に過ぎないノンキャリアではありますが、祖父が県令止まりの没落豪族劉備にしてみれば、24歳での県尉昇進は大きな出世でしょう。

 

劉備の黒歴史

 

だからこそ、しばらくしてリストラされた時は烈火のごとく怒ったのでしょうね。

 

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鍾会の乱

 

 

その後の鄒靖

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

劉備と別れて後の鄒靖の消息は後漢書の応劭(おうしょう)伝に登場します。中平二年(185年)皇甫嵩が韓遂と辺章の乱を討伐すべく烏桓兵3000の増援を要請した時の事、北軍中侯(ほくぐんちゅうこう)だった鄒靖は「烏桓兵(うかんへい)はザコなので鮮卑兵(せんぴへい)を採用すべきです」と意見しています。

 

鄒靖の意見は朝廷に挙げられ、大将軍(えん)韓卓(かんたく)は「烏桓の兵は少なく、鮮卑は代々仇敵なので烏桓の兵を挑発すると鮮卑は烏桓の家を襲うでしょう。結局、烏桓兵は戦いどころではなくなり故郷に逃げ戻るに違いありません。鄒靖殿は辺境に住んでいてその虚実を知るので彼に鮮卑騎兵5000を募らせれば必ずや敵を破れます」と意見します。

 

 

しかし、同僚の応劭が鮮卑はそもそも信用できないので、隴西の羌胡で忠義心が高いものを選んであてましょうと反論。結局、朝廷は応劭の意見を採用し、やってきたのがあの董卓だったのです。

 

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公孫瓚陣営で劉備と再会できたか?

朝まで三国志の公孫瓚

 

その後の鄒靖は中平5年(188年)張純の乱で破虜校尉(はりょこうい)として従軍し胡族を追撃するものの、途中で包囲されてしまいます。しかし、ここを公孫瓚に救助されたと太平御覧(たいへいぎょらん)には記されています。

 

その後の鄒靖の足取りは不明ですが、張純の乱鎮圧に参加しているという事は、劉虞の配下として戦った可能性が濃厚で、公孫瓚の部下ではないかも知れません。

 

劉虞

 

だとすると、公孫瓚と劉虞が決裂した時に劉虞サイドについて公孫瓚とは敵対した可能性もあります。

 

一方劉備は、督郵をしばいて辞職した後に、今度は何進(かしん)大将軍の都尉毌丘毅(かんきゅうき)が丹陽郡まで賊を征伐に来たのに従って従事となり、下邳(かひ)の戦いで手柄を立て下密の丞となり、そこを辞めて、今度は、高唐県の尉に転身して昇進し県令となりました。

 

暴れまわる黄巾賊

 

しかし、その後黄巾賊に城を攻められて得意のとんずらを決め込み、切羽詰まって公孫瓚の客将に落ち着きます。それが191年の事で袁術に対する対応を巡り、公孫瓚と劉虞の仲が悪くなり始めた時期でした。

 

忙しい方にざっくり解答03 kawausoさん

 

もしかしたら劉備はギリギリで鄒靖と再会できたのかも知れません。劉備としては自分を県尉に推薦してくれた人なので一方ならぬ恩義は感じていたと思いますが、なんの記録もないので想像の域を出ませんね。

 

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黄巾賊

 

 

三国志演義ではさらに重要

黄巾の乱時に劉備を配下に加えて戦っていた鄒靖

 

三国志演義での鄒靖は幽州太守の劉焉(りゅうえん)に対して、黄巾賊は多く正規軍は少ないので、義勇兵を募って備えましょうと提言し、各地に義勇兵募集の高札を立てさせています。

 

桃園の誓いをする劉備、張飛、関羽

 

演義の劉備は、高札を見て溜息をつき、それを見とがめた張飛が「おうおう!大の男が何を溜息をついているんだ?」と因縁をつけて、そこから居酒屋で飲んで漢王朝の再興を目指して意気投合という流れなので、もし高札が無ければ桃園の誓いもなかったかも知れない重要な人物です。

 

劉備と鄒靖は意気投合して幽州の黄巾賊を退治しますが、劉焉が今度は青州太守の龔景(きょうけい)の援軍に行けと厄介払いをし、龔景を救った後で劉備は盧植の下に赴いて鄒靖と別れていく筋書きになっています。

 

そして、やはり最後どうなったのか?分からずじまいなのも、正史と共通しています。

 

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三国志平話

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

今回は劉備の隠れた恩人である鄒靖を取り上げてみました。

 

校尉という、それほど身分が高くない人物ですが、辺境に住んでいて異民族の動静に詳しく、その意見は皇甫嵩を通して朝廷にまで上げられ議論の的になるなど軍人としてはなかなか有能な人物である印象です。

 

また劉備にしても公孫瓚の客将時代には烏桓突騎を率いているなど、異民族と縁がある様子なので、鄒靖とは馬があったのかなと推測してしまいます。鄒靖が劉備の将来性を買って、安熹県尉に推挙したと考えると、将来の皇帝を発掘した人物として感慨深いですね。

 

参考文献:後漢書 太平御覧

 

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北方謙三三国志

 

一騎打ち

 

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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