諸葛亮亡きあと、蔣琬そして費禕が蜀のかじ取りを任されます。彼らは大規模な北伐(魏との戦い)は行いませんでした。
しかし二人が亡くなり、姜維が軍事の実権を握ると、彼は連年のように北伐を敢行します。その北伐は思うように結果を残せず、結局は蜀を衰退させてしまいます。
ただ、この姜維の北伐、その攻め込んだ場所を見てみると魏打倒の他の目的があるかもしれません。ポイントは「シルクロード貿易」です。
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姜維の連年の北伐での重要地点は?
姜維は軍事権を握ると、連年の北伐を敢行しました。なんと253年から257年まで5年連続の出兵をし、その後も何度か兵を出しています。その北伐の内容を見てみると、魏と蜀は「隴西」という地域で何度も争っていることがわかります。
姜維の北伐は主にこの地域を奪取しようとしていたと考えられます。この隴西という地域は現在の甘粛省東南部にあたります。姜維自身も「自分は西方の風俗に詳しい。隴より西はなんとしても領有したい」と述べています。
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隴西地域には何があるのか?
姜維はその地域を重要と考えていたようですが、どうしてでしょうか。実はこの地域、有名な「シルクロード」の中継地として重要な役割を持っていたのです。この地を抑えればシルクロード貿易の利益を得られる、と姜維が考えていても不思議ではありません。
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シルクロードとは?
シルクロードとは長安(現在の西安)を出発し、敦煌を得てカシュガル(現在の新疆ウイグル自治区)へ至り更に地中海ローマまで達する貿易路のことを指します(ルートは諸説あり)。
シルクロードの始まりは正確にはわかりませんが、前漢の「武帝」の時代に張騫の西域遠征が行われ、西方へのルートが開かれたと考えられます。西方には多くの独立国家がありましたが、武帝はそれらを勢力下におさめ、貿易の利益を享受していきます。
姜維は西方の異民族にも詳しかったそうなので、前漢の武帝を習い、シルクロードを奪取することによって利益を得ようとしたのかもしれません。
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「三国志」の時代のシルクロード
三国志の時代のシルクロードについてほとんど資料は残っていません。正史「三国志」においてシルクロードについての言及は殆どありません。しかし、西域の国々についてわずかに記述があり、シルクロードの拠点として有名な都市「楼蘭」(鄯善国、漢の支配下で名を楼蘭から変えた)について少し触れられています。
「魏書、文帝紀」によると、「222年、鄯善国らの使者が訪れ、贈り物を献上した。その後西域が解放され役所が設置された」とあります。
その記述から推測すると文帝(曹丕)のころには魏がシルクロードの権利を握っていたと考えられます。
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戦乱の中でも貿易を行う商人たち、そして姜維との関係
姜維の時代になると戦乱は激しくなり、貿易も滞ったに違いありません。しかし、シルクロードの拠点「楼蘭(鄯善国)」ではのちに古文書が多数発見され、その中には三国志の時代に書かれたと思われる漢文の文書も残っていました。
それらは取引記録などの商業文書、徴税記録などで、この時代にも中国から貿易に訪れていた商人がいたことがわかります。
また楼蘭は記録によると「羌族」の侵入に悩まされていたそうです。この羌族は姜維が討伐に従事したり、関係を持った異民族であり、そこから姜維はなんらかの貿易に関係する情報、または協力を得ていたのかもしれません。
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