羅憲は蜀漢に仕え後に西晋に仕えた軍人です。
蜀漢にも姜維や魏延、王平のような名将はいますが羅憲は一風変わった経歴を持ちます。羅憲は蜀が滅亡した後に呉を相手に奮戦した名将でした。
荊州襄陽出身の羅憲
羅憲は荊州襄陽郡の出身で父の羅式は戦乱を避けて蜀に移住したとあります。荊州動乱の時期は、劉表が荊州に赴任する189年以前か曹操に荊州が征服された西暦208年でしょう。羅憲は没年が270年で生年が不明ですが、200年前後に誕生したと考えると曹操により荊州が陥落した208年が近いのかも知れません。
それはつまり羅式が諸葛亮や馬良、馬謖のような襄陽組に属して劉備と共に江夏に逃れ、赤壁後に蜀入りを果たした一派である事を示唆しています。羅式は流れ者にもかかわらず広漢太守になっているので、劉備に近しい占領軍の一員の可能性が高いでしょう。
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劉禅の部下として出世する羅憲
羅憲は13歳にして文章をよく書き学問で名を知られるようになります。その後は礁周の弟子になり、仲間からは孔子の弟子で最も出来がよい子貢の如しと称えられました。
性格はまじめで積極的に人材を推挙し、財産を軽んじて人に施し財産を殖やそうとしなかったそうです。利殖をしないという点は子貢とは違いますね。成人すると劉禅の太子舎人になり、つぎに尚書吏部郎に異動、呉に使いに出る事2回で呉人に才能を称賛されました。
太子舎人は、皇太子の警備や雑用役でさして高い地位ではありませんが、次期皇帝とコネを造るには絶好のポジションで、上級貴族の子弟が任命されますから、羅憲がエリートである事がうかがえます。呉に使いに出る事2回というのも将来的には外交官として呉と折衝する事を期待されていたのでしょう。
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黄皓に疎まれ左遷?
だだ真面目な人だったことが災いし、当時、ほとんどの蜀の役人が宦官の黄皓におべっかを使っているところを羅憲は迎合しなかったので黄皓の恨みを買い、辺境の巴東太守に異動、巴東都督閻宇の副将になります。ちょっとすると左遷に見えますが、実は閻宇が巴東都督になったのは呉の朱績の要請であり、魏をけん制するためでした。
また閻宇は諸葛瞻や董厥同様に姜維の北伐に反対し黄皓と仲が良いのです。黄皓が、わざわざお気に入りが統治するポストに嫌いなヤツを送り込むとも思えず、この人事は左遷じゃなく羅憲の才能を買っての抜擢かも知れません。さらには、この時巴東に異動になった事で羅憲の名前は歴史に残る事になります。
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蜀漢滅亡
西暦263年大事件が起きます。魏の鍾会と鄧艾が蜀に攻め込んできたのです。この時、都督の閻宇は成都に召喚され羅憲が永安を守る事になりました。
しかし間もなく成都が鄧艾により陥落し劉禅は降伏したという噂が永安に届きます。永安では大混乱が起こり城を捨てて逃げる官吏が多発しました。
羅憲は逃げる官吏を「デマをまいて民心を惑わした」として殺害し民心を安定させます。やがて劉禅が降伏した事実が伝わると羅憲は配下の将兵を引き連れて都亭に赴き3日間の喪に服しました。
え?先に殺された官吏は?と思いますが、あの時は降伏が正式情報ではなかったんでしょうね、多分…事実でも発表するタイミングでは、こうなる事もあります。
本当なら、これで羅憲の仕事は終わりのはずですが、そうはなりませんでした。
呉の孫休は蜀が滅亡したと知るとどさくさで永安を落とそうと盛憲に軍勢を与えて長江を遡上してきたのです。
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羅憲、侵略者呉との戦いを決意
最初、盛憲は援軍を装っていながら、永安に近づくと侵略者の本性をむき出しにします。これには羅憲が怒りました。
「漢と呉は唇と歯の関係であるのに、危機を救うどころか火事場泥棒に来るとは、もはや呉の命運も見えた」そして、こんな卑怯者に降伏するくらいなら晋についたほうがいいと巴東郡、永安の要塞を堅守します。
永安の兵士は、すでに蜀も滅んでいるのにどうして戦うのかと茫然自失でしたが羅憲は、自ら鎧を繕い城壁を修復し兵糧を集め「国が滅んでも全うすべき節義はある」と説いたので、兵士は奮い立ち命令に従いました。
羅憲にとって悪い事は続きます。
成都を落とした鄧艾が鍾会の策謀で洛陽に護送され、鍾会もまた姜維と組んで謀反を企らみ衛瓘に討たれたのです。鄧艾も帰還途中に衛瓘が出した刺客の田続に殺害され蜀から有力な将軍が全員消滅しました。
孫休はこれをチャンスととらえ、さらに撫軍将軍の歩協を増援させます。羅憲は永安から討って出て長江の対岸から矢を放って渡河を阻止しようとしますが多勢に無勢で防ぎきれず、参軍の楊宗に蜀からの印綬と息子を託して包囲を突破させ晋への降伏を表明し同時に援軍を要請します。
同時に歩協が野戦を仕掛けると羅憲は撃破しました。楽勝できると思っていた孫休は怒り、鎮軍将軍の陸抗、征西将軍留平、建平太守の盛曼に3万の大軍を与えて永安城を包囲させます。
羅憲に預けられた正規兵は2000人でこれ以上はどうしようもなく、籠城し魏からの援軍の到着を待つ事になりました。
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