曹休と曹真は曹操の一族として活躍した武将です。そんな彼ら、実は同じ曹操の親衛隊に所属していたのです!
その親衛隊の名前は「虎豹騎」。とてもカッコいい名前ですが、その部隊はどのようなものだったのでしょうか?
今回の記事で探ってみましょう。
この記事の目次
「虎豹騎」とはどんな部隊なのか?
虎豹騎は曹操直属の親衛隊です。親衛隊とは、君主などの重要人物の身辺警護をする武装部隊です。警護だけでなく、君主と共に前線で戦うことも良くあったようです。
虎豹騎の特徴は「騎兵隊」であったことで、主に馬に乗って戦いに赴いていました。この部隊が正史「三国志」に登場したのは官渡の戦いののち、袁紹の息子袁譚を曹操が撃破した時でした。
その部隊の指揮は主に曹操の一族が務め、曹純、曹休、曹真などが指揮をとっていました。なかでも曹純はその戦闘能力の高さから曹操から信頼され、長く虎豹騎の指揮を執っています。
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虎豹騎の初めての活躍、袁譚との戦い
虎豹騎が初めて活躍したのは、袁紹の息子「袁譚」との戦いでした。袁紹の死後、その息子の袁譚、袁尚との間で後継者争いに関わる内戦が勃発し、二人は激しい戦いを繰り広げていました。
その隙を突いた曹操が袁譚を攻撃。そこで活躍したのが虎豹騎でした。曹純の指揮下で馬で逃走する袁譚を追撃、彼を捕え斬首することに成功したのです。
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騎兵自慢の異民族「烏桓」をも破る
「鳥丸」は中国の北部、現在の内モンゴル自治区に勢力を持っていた異民族です。彼らは騎馬での戦いを得意としていました。袁尚らが曹操との戦いに敗れ、逃走してくると当時の鳥丸の族長、「蹋頓」は彼らをかくまったため、曹操の攻撃を受けることになります。
そこでも鳥丸は自慢の騎馬隊を率いて戦いましたが、曹純率いる虎豹騎がこれを破り、蹋頓を捕縛することに成功したのです。その後鳥丸族は曹操軍に取り込まれ、曹操は強力な騎馬隊を手に入れました。この中から虎豹騎に採用された兵もいたかもしれませんね。
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虎豹騎、劉備を追撃する
張飛の活躍で有名な「長坂の戦い」では逃亡する劉備たちを虎豹騎は昼夜問わず馬を走らせ追撃し、指揮していた曹純は劉備の二人の娘を捕えることに成功しました。
この時「趙雲」が奮戦し、劉備の妻と息子を戦乱の中から保護していますが、この時趙雲を阻止しようと戦ったのが虎豹騎たちと思われます。
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呉との戦いで活躍した「曹休」
虎豹騎の指揮をして大いに活躍したのが「曹純」でしたが、同族の「曹休」も虎豹騎の指揮を度々任されていました。彼は早くに父を亡くし、一族の曹操が挙兵するとそれに参加しました。
曹操は曹休を大変気に入っており、「この子は我が家の千里の馬なり」と絶賛し、わが子同然に育てたといいます。その後は曹真らと共に虎豹騎の指揮を任され、多くの戦いに赴いています。兄弟同然に育った曹丕にも信頼され、呉の討伐の責任者を命じられ、大軍を指揮し呉に打撃を与えました。
曹休の後半生はもっぱら呉との戦いに費やされ、敗戦でのショックから亡くなっています。
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