龐統と言えば劉備の蜀入りに大きな貢献をした武将として知られていますね。蜀の武将のイメージが強い彼ですが、実は敵でも呉の武将たちと深い関係性があったのです。
今回の記事ではそんな龐統と呉の武将たちの関係について探ってみようと思います。
この記事の目次
初めは役所の人事担当者だった龐統
龐統は荊州の襄陽郡の出身です。若いころは地味で、動きも鈍そうに見えた為、彼を気にする人はいませんでした。
しかし、人物評価で有名だった「司馬徽」という人が龐統を高く評価し、その評判からか郡の「功曹」という役人になりました。「功曹」とは役所の人事担当者の事で、龐統は人材の抜擢を担ったことになりますね。
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実は周瑜に仕えていた龐統
208年の「赤壁の戦い」の後、荊州は呉の「周瑜」が支配することになります。これに伴い、引き続き龐統も功曹の業務を担当することになりました。と、いう事は龐統は周瑜に仕えていたことになりますね。このころから呉の人々と龐統の交流が始まったのでしょう。
周瑜が亡くなると龐統はその遺体に付き添って呉に赴きますが、その地で名士たちと親しく付き合う事になりました。特に「陸績」「顧邵」「全琮」らとはかなり親しくしており、お互いを高く評価していました。
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魯粛に助け舟を出される龐統
その後、荊州は劉備が支配することになり、龐統もその支配下に入り、県令(県知事)の職を与えられました。しかし、龐統はまったく業績を上げられず、なんとクビになってしまいます。
この噂が呉まで伝わっていたのか、呉の武将「魯粛」がこのことを知ることになります。魯粛は劉備に手紙を送ります。「彼は県令のような小さな仕事をする男ではありません、もっと大役をあたえてこそ、かれの才能が生かせるのです。」と、龐統を擁護しました。諸葛亮も同じように龐統をとりなしたため、劉備は龐統と面会することにしました。
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劉備、龐統を見直す
劉備は龐統と面会するとその才能に驚き、高い位に就かせ、後には諸葛亮と同等の軍師に任命しています。
劉備は龐統との面会の中で「君(龐統)はかつて周瑜の配下で親しかったようだが、私が呉に行き孫権の妹を妻にしたとき、そのまま私を呉に抑留させる周瑜の策があったと聞くが、事実か?」とたずねていて、劉備も龐統と呉の関係性については知っていたようですね。
ちなみに策は事実だったようです。
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その後の龐統
その後の龐統は軍師として諸葛亮とともに劉備の入蜀に尽力します。
始めに益州に入った際は劉璋は油断し、劉備と共に宴会を開くなどしたため、龐統は「これを機会に劉璋を捕え、一気に益州を手に入れましょう。」と進言しますが、劉備はこれを受け入れず、実はこれが龐統の寿命を縮めます。
結局劉備は軍事力によって劉璋と戦う事になりますが、劉璋軍は頑強に抵抗します。
龐統も従軍しますが、城攻めの際に降り注ぐ矢に討ち抜かれ、そのまま劉備の蜀入りを見ることなく亡くなってしまいました。
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