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蜀の丞相一覧!でも蜀の丞相はただ一人?


 

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諸葛孔明を自分のもとに入れたくて堪らない劉備

 

丞相(じょうしょう)」とは古代中国で、君主の補佐を担当した最高位の役職にあたります。軍事や内政のすべてに実権をもち、いまでいう大統領制や君主制のもとでの「首相」にあたります。

 

孔明インタビュー

 

今回の記事では三国志の時代の「(しょく)」において丞相を担当した人物を紹介します。が、蜀の丞相はただ一人です。加えて丞相とほぼ同じ仕事を担当した人たちも紹介します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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蜀唯一の「丞相」は「諸葛亮」!

歳をとっても元気な孔明

 

蜀で「丞相」職に就任したのは「諸葛亮(しょかつりょう)」ただ一人です。その死後には丞相職は置かれず、「蒋琬(しょうえん)」「費禕(ひい)」が丞相の役割を果たしています。次項から諸葛亮が丞相になるまでの歩みを見てみましょう。

 

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諸葛亮「丞相」になるまで

孔明

 

諸葛亮は184年に生まれました。その後「荊州(けいしゅう)」に移り住み、「晴耕雨読(せいこううどく)」(晴れた日には外で畑を耕し、雨の日は読書にいそしむ)の生活を送っていました。

 

諸葛亮孔明の天下三分の計に感化される劉備

 

その生活は彼が27歳になるまで続きましたが、当時軍師を探してた劉備(りゅうび)が諸葛亮の評判を聞き、配下にしようと何度も尋ねました。しかし諸葛亮は留守で、3度目でようやく会う事ができ(三顧(さんこ)の礼)、二人はそこで意気投合、諸葛亮は劉備に仕えることになるのです。

 

天下三分の計を唱える諸葛亮孔明

 

ここで諸葛亮は曹操(そうそう)孫権(そんけん)と国を3分する「天下三分(てんかさんぶん)の計」を披露しています。その後、諸葛亮の補佐もあり、劉備は益州(えきしゅう)を手に入れることに成功し、220年には皇帝に即位、「蜀漢」を成立させました。これに伴い諸葛亮は最高職である「丞相」の地位に就いたのです。

 

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劉備の死後は蜀の全権を任される

馬謖に重要な仕事を任せるなと孔明に伝えて臨終を迎える劉備

 

劉備は「夷陵(いりょう)の戦い」で呉に大敗し病気が重くなり、223年に亡くなりました。劉備は死に際して、息子の劉禅(りゅうぜん)の補佐を諸葛亮に託し、「もしわが子(劉禅)に才能が無ければ君が国を治めてくれ」とまで言いました。

 

劉備との楽しい思い出を振り返る孔明

 

諸葛亮は泣きながら劉禅の補佐を誓ったといいます。劉備の死後に引き続き丞相として蜀の全権を任された諸葛亮はまず、益州南部を平定し財政を安定させました。

 

孔明による出師の表

 

その後は魏を倒すため「北伐」を決意、その際に劉禅に上奏した「出師(すいし)(ひょう)」は名文として有名です。しかし、何度も北伐を敢行するものの、大願は果たせず、司馬懿(しばい)と対決をした「五丈原(ごじょうげん)の戦い」の陣中で亡くなります。

 

孔明に信頼されていた費禕

 

諸葛亮は死の間際に自分の後継者として「蒋琬」「費禕」の名をあげました。次項からは彼らの業績についてみてみましょう。

 

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劉禅

 

 

諸葛亮の後任を果たした「蒋琬」

蔣琬(しょうえん)・蒋琬

 

蒋琬は若いころから才能を認められていましたが、小さな仕事を任されていました。彼はあるとき仕事を無視して泥酔し、劉備に処刑されそうになりましたが、諸葛亮に弁護されています。

 

蒋琬(しょうえん)蔣琬

 

その後は諸葛亮の補佐を見事にこなし、彼の死後は録尚書事(官僚を統括する)、大将軍を兼任し、蜀のすべてを取り仕切ります。諸葛亮の言ったとおり、蒋琬は国の政治を乱れさせることなく、諸葛亮の後任を果たしたと言えるでしょう。晩年は北伐も計画しましたが、自身の病気により断念しています。

 

蒋琬(しょうえん)蔣琬

 

なお、彼は丞相には就任しませんでしたが、小説「三国志演義」では丞相になっています。蒋琬の死後に蜀の政治を担ったのは「費禕」でした。

 

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北伐の真実に迫る

北伐

 

 

頭のキレる男「費禕」

費禕

 

費禕は恐ろしく仕事の早い人物で、多くの人に驚かれていましたが、一方で仕事の合間に泥酔しながら博打をするなど豪快な性格でもありました。

 

呉による集団イジメを察した費禕、孫権達を論破する

 

諸葛亮に才能を評価され、南部平定戦や北伐にも同行し、呉への使者としても活躍しました。呉では費禕は議論を吹っ掛けられましたが、費禕は屈せず、孫権も評価しています。

 

北伐したい姜維を止める費禕

 

246年に蒋琬が亡くなると、録尚書事、大将軍に就任、国政を取り仕切ることになります。彼は魏に対して積極策は取らず、守りに徹しました。

 

北伐したくてたまらない姜維

 

武に自信があった「姜維(きょうい)」は、何度も北伐を計画しましたが費禕は「我々の才能は丞相におよばない。かれにできなかったことが我々にできるわけがない。今は国を守り、人材の出現を待とう。」と1万人の兵士か姜維に与えなかったといいます。

 

費禕の宴会に呼ばれて毒を塗った刀で暗殺に成功した郭修(かくしゅう)

 

しかし、そんな費禕は宴会の席で魏の降将に刺殺されてしまいます。

 

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みうらひろし

みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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