「丞相」とは古代中国で、君主の補佐を担当した最高位の役職にあたります。軍事や内政のすべてに実権をもち、いまでいう大統領制や君主制のもとでの「首相」にあたります。
今回の記事では三国志の時代の「蜀」において丞相を担当した人物を紹介します。が、蜀の丞相はただ一人です。加えて丞相とほぼ同じ仕事を担当した人たちも紹介します。
この記事の目次
蜀唯一の「丞相」は「諸葛亮」!
蜀で「丞相」職に就任したのは「諸葛亮」ただ一人です。その死後には丞相職は置かれず、「蒋琬」「費禕」が丞相の役割を果たしています。次項から諸葛亮が丞相になるまでの歩みを見てみましょう。
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諸葛亮「丞相」になるまで
諸葛亮は184年に生まれました。その後「荊州」に移り住み、「晴耕雨読」(晴れた日には外で畑を耕し、雨の日は読書にいそしむ)の生活を送っていました。
その生活は彼が27歳になるまで続きましたが、当時軍師を探してた劉備が諸葛亮の評判を聞き、配下にしようと何度も尋ねました。しかし諸葛亮は留守で、3度目でようやく会う事ができ(三顧の礼)、二人はそこで意気投合、諸葛亮は劉備に仕えることになるのです。
ここで諸葛亮は曹操、孫権と国を3分する「天下三分の計」を披露しています。その後、諸葛亮の補佐もあり、劉備は益州を手に入れることに成功し、220年には皇帝に即位、「蜀漢」を成立させました。これに伴い諸葛亮は最高職である「丞相」の地位に就いたのです。
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劉備の死後は蜀の全権を任される
劉備は「夷陵の戦い」で呉に大敗し病気が重くなり、223年に亡くなりました。劉備は死に際して、息子の劉禅の補佐を諸葛亮に託し、「もしわが子(劉禅)に才能が無ければ君が国を治めてくれ」とまで言いました。
諸葛亮は泣きながら劉禅の補佐を誓ったといいます。劉備の死後に引き続き丞相として蜀の全権を任された諸葛亮はまず、益州南部を平定し財政を安定させました。
その後は魏を倒すため「北伐」を決意、その際に劉禅に上奏した「出師の表」は名文として有名です。しかし、何度も北伐を敢行するものの、大願は果たせず、司馬懿と対決をした「五丈原の戦い」の陣中で亡くなります。
諸葛亮は死の間際に自分の後継者として「蒋琬」「費禕」の名をあげました。次項からは彼らの業績についてみてみましょう。
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諸葛亮の後任を果たした「蒋琬」
蒋琬は若いころから才能を認められていましたが、小さな仕事を任されていました。彼はあるとき仕事を無視して泥酔し、劉備に処刑されそうになりましたが、諸葛亮に弁護されています。
その後は諸葛亮の補佐を見事にこなし、彼の死後は録尚書事(官僚を統括する)、大将軍を兼任し、蜀のすべてを取り仕切ります。諸葛亮の言ったとおり、蒋琬は国の政治を乱れさせることなく、諸葛亮の後任を果たしたと言えるでしょう。晩年は北伐も計画しましたが、自身の病気により断念しています。
なお、彼は丞相には就任しませんでしたが、小説「三国志演義」では丞相になっています。蒋琬の死後に蜀の政治を担ったのは「費禕」でした。
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【北伐の真実に迫る】
頭のキレる男「費禕」
費禕は恐ろしく仕事の早い人物で、多くの人に驚かれていましたが、一方で仕事の合間に泥酔しながら博打をするなど豪快な性格でもありました。
諸葛亮に才能を評価され、南部平定戦や北伐にも同行し、呉への使者としても活躍しました。呉では費禕は議論を吹っ掛けられましたが、費禕は屈せず、孫権も評価しています。
246年に蒋琬が亡くなると、録尚書事、大将軍に就任、国政を取り仕切ることになります。彼は魏に対して積極策は取らず、守りに徹しました。
武に自信があった「姜維」は、何度も北伐を計画しましたが費禕は「我々の才能は丞相におよばない。かれにできなかったことが我々にできるわけがない。今は国を守り、人材の出現を待とう。」と1万人の兵士か姜維に与えなかったといいます。
しかし、そんな費禕は宴会の席で魏の降将に刺殺されてしまいます。
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