夏侯惇と言えば、曹操を挙兵時から支えた勇猛な武将として知られていますね。その武勇は有名ですが、夏侯惇自身はどのような人柄だったのでしょうか?
正史「三国志」に記された夏侯惇と、小説である「三国志演義」で描写された夏侯惇の人柄には若干の違いがあります。今回の記事ではそんな夏侯惇の人柄について正史と小説を比べながら探ってみることにします。まずは夏侯惇の経歴から紹介しましょう。
この記事の目次
曹操の親せきで、その挙兵に従う夏侯惇
夏侯惇は曹操の「いとこ」と言われています。曹操の父と、夏侯惇の父が兄弟なのだそうです。夏侯惇は師について学問に励んでいましたが、その師を侮辱され怒り、侮辱した相手を殺してしまうほどの気性の持ち主でした。曹操が挙兵するとそれに従い、各地を転戦しました。
有名なのは呂布との戦いの際に矢にあたり、左目を失ってしまったことです。以後、彼は隻眼として過ごすのですが、周囲には親せきの「夏侯淵」)と区別するため「盲夏侯」(盲は目が見えない意味)と呼ばれていました。
夏侯惇はこれをとても嫌がり、鏡を見るたびに叩き割っていたそうです。車の同乗を許されるなど、曹操にとても優遇された夏侯惇ですが、曹操がなくなって数か月後に後を追うように亡くなります。曹操の跡継ぎ「曹丕」に軍事の最高責任者「大将軍」に任命された直後のことでした。
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いつまでも学ぶことを忘れない夏侯惇
夏侯惇は若いころに師を侮辱した者を殺すほどの人物ですが、学問については忘れていませんでした。彼は例え軍の遠征中でも陣中に師を迎えて勉学に励んだといいます。当時の学問は「兵法」なども含まれたと考えられますので、学問はきっと戦場でも役に立ったことでしょう。
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夏侯惇は金にこだわらない
夏侯惇は魏でもかなり高位でしたから、きっとかなりの財産を築くことができたでしょう。夏侯惇はそのような金や財産には興味を示さず、余計なお金は人々に施し、財産を増やすようなことはありませんでした。
しかし、夏侯惇の息子「夏侯楙」は反対に金儲けが好きで、反感を買っていたようです。
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夏侯惇は交友関係が広い!
夏侯惇はその人柄の良さから、多くの人を惹きつけました。その人柄は人材発掘にも生かされ、曹操のボディーガードを務めた「典韋」、屯田を提唱した「韓浩」など優れた人材を登用しています。
交友関係も広く、恩賞を拒否して隠遁していた「田疇」という気難しそうな人物とも友人関係だったそうです。曹操は田疇になんとしても恩賞を与えたく、友人である夏侯惇に説得を任せました。ただ、田疇の決意は固く、夏侯惇は説得には失敗しています。
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民のことも忘れない
夏侯惇は戦場だけでなく、内政でも力を発揮しました。領地に大規模な灌漑工事(農業用水を確保するための工事)を行い、その時には自ら土を運び、将兵に田植えの手伝いをさせたり、民にも大いに喜ばれたといいます。
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