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陳寿は蜀の裏切り者で呉の功臣、潘濬をどのように評価したのか?

2022年5月13日


 

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潘濬(はんしゅん)

 

(かつ)て、蜀の国で劉備(りゅうび)に仕えていたのが潘濬(はんしゅん)。しかし関羽(かんう)の死後、紆余曲折後に孫権(そんけん)に仕えるようになり、呉でナイスなワークの数々を見せました。

 

三国志を語るセンさん

 

その一方で、季漢輔臣賛(きかんほしんさん)では裏切り者の一人としての扱いをされています。ですがこれらを合わせ見ると、陳寿(ちんじゅ)先生のスタンスが見えてくることに気付きました。今回はこの季漢輔臣賛も合わせて、ご紹介したいと思います。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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元々は関羽に仕えた潘濬

功績を上げ続ける潘濬(はんしゅん)

 

まずは潘濬について、少しおさらいしてみましょう。潘シュンが劉備の配下になったのは、劉備が荊州(けいしゅう)を治めるようになってからです。

 

潘シュンは劉備にとても評価され、信頼されていました。その劉備が入植……ではなく、入蜀すると、潘シュンは関羽の下で働くことになります。これが潘シュンの、蜀と進む運命との分かれ道となりました。

 

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はじめての三国志データベース

 

 

 

関羽が襄陽攻めで敗れると自宅に引き籠るが

父・関羽とともに亡くなる関平

 

219年、荊州陥落。軍神とまで謳われた関羽にもこの運命は変えられず、敗北のち、その土地は孫権に奪われるようになります。

 

南蛮異民族をボコボコにする潘濬(はんしゅん)

 

この際に関羽と共にいた諸将は孫権に下りましたが、潘シュンはそれを良しとせず、自宅に閉じこもりました。その振る舞いに惹かれるものがあったのでしょう、孫権は潘シュンの元を訪れ、

 

孫権に気に入られる孫峻

 

「古くから賢者は一度は捕虜になり、後に抜擢されて名臣となった者も多くいる、貴方もそうなってはくれないだろうか」と言い、この言葉に感服した潘シュンは呉への臣従を決め、そしてここからがある意味、潘シュンの生涯の最大の輝きを見せることになります。

 

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関羽

 

 

蜀と呉で矛盾する潘濬の評価

陳寿(晋)

 

こうして潘シュンは呉書において伝が立てられ、それも立伝は陸凱(りくがい)と並び、その振る舞いは「時に主君に対して恐れず直言する、士太夫(したいふ)として最高の仕事を行った者」という高い評価をされています。が、その一方で。

蜀志(蜀書)_書類

 

蜀書、楊戯伝(ようぎでん)に付属されている「季漢輔臣賛」において、潘シュンは「糜芳(びほう)士仁(しじん)・カク()と並ぶ、呉蜀二国において裏切り者であるとして笑い者とされた人物」と記されているのです。

 

これは蜀から見ればその過程は関係なく、関羽に殉じることなく、敵国に寝返った者、という評価をせずにはいられなかったという背景もあるのでしょう。

 

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佞臣

 

 

季漢輔臣賛とは劉備を助けた人々を讃えた書

漢中王になる劉備

 

ここでちょっと、季漢輔臣賛について説明しましょう。

 

これは「きかんほしんさん」と読み、蜀書の楊戯伝に付属して収録されているもので、名前の通り「劉備」の「漢」を「助けた」「家臣」を「称賛した」ものです。

 

孫堅(37)の自慢の息子たち 孫策(17)、孫権(10)

 

どうして季漢で劉備の漢となるのかですが、これは古来中国の「伯仲叔季(はくちゅうしゅくき)」という字の付け方にもよるもので、これは司馬(しば)兄弟や孫策(そんさく)、孫権の字からも分かるように、兄弟の順番を表したものです。

 

伯は長男、仲は次男、叔は三男、そして季は四番目、というよりも「末の子」という意味になります。このため季漢は漢の末っ子、つまり劉備を表すのですね。

 

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劉禅

 

 

季漢輔臣賛に記された蜀のビッグネーム

五虎大将軍b 関羽、張飛、馬超、趙雲、黄忠

 

さてこの季漢輔臣賛ですが、様々な名将たちが収録されています。それこそ昭烈皇帝(しょうれつこうてい)、劉備を始めとして、諸葛丞相(しょかつじょうしょう)や、三国志演義(さんごくしえんぎ)においては劉備の義兄弟として有名な関雲長(かんうんちょう)張益徳(ちょうげんとく)馬孟起(ばもうき)法孝直(ほうこうちょく)?士元(ほうしげん)黄漢升(こうかんしょう)……と、ここらで何かにお気付きでしょうか。

 

そう、彼らは大体が姓と字で記されています。これは名を使わず、彼らに敬意を表しているということですが……この最後に例外が出てきます。それこそが糜芳、士仁、カク普、潘シュンの四名です。

 

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鍾会の乱

 

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両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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