ヘレン・ケラーは日本では、見えない、聞こえない、話せないの三重苦を乗り越えた人として有名です。しかし海外の偉人にありがちな事として、偉人の性格や死因については、驚くほど知られていなかったりもするのです。
そこで今回はヘレン・ケラーについて解説してみましょう。
この記事の目次
ヘレンケラーの経歴(あらすじ)
ヘレン・ケラーはアメリカ合衆国の作家で社会活動家です。1880年6月27日、アラバマ州タスカンビアで裕福な両親の下に誕生しました。
ヘレンは1882年、1歳半の時に高熱を発し髄膜炎に感染。医師と家族の懸命な治療により一命は取り留めますが後遺症として視力と聴力を失い、話す事も出来なくなりました。
ヘレンを哀れんだ両親は躾をする事も出来ずに甘やかして育てたので、ヘレンはワガママ放題で野獣のようになったそうです。
しかし、ヘレンが7歳の時、両親はこのままではいけないと聴覚障害児の教育をしていたグレハム・ベルの元を訪れ、ベルの紹介でパーキンス盲学校の校長、マイケル・アナグノスから家庭教師を派遣してもらいます。
ここでケラー家にやってきたのが、同校を卒業したばかりのアン・サリヴァンでした。
サリヴァンは、自らも幼少期に視力を失った経験から目が見えず耳が聞こえないヘレンに躾をするために指文字を教え、反抗するヘレンと毎日取っ組み合いをしながら教育を施しました。
サリヴァンの指導や聾学校の校長先生の発声指導を受け、ヘレンの発声能力は飛躍的に上昇し、ついに言葉を取り戻します。ヘレンが初めて発した文章は「It is warm」(今日は暖かいですね)だったそうです。
サリヴァンはヘレンの生涯の師となり、その関係はサリヴァンが亡くなるまで半世紀も続きました。
ヘレンは負けず嫌いで利発な性格で、目が見えず、耳が聞こえないハンディを乗り越え、20歳でラドクリフ・カレッジに入学。大学でもサリヴァンが横について勉強をサポートしつつ、大学在学中の22歳に「私の生涯」を執筆し新聞連載を開始。作家として活動しはじめ、24歳で大学を卒業し文学士の称号を得ます。
29歳でアメリカ社会党に入党し、婦人参政権運動や産児制限運動、公民権運動など多くの政治的・人道的な抗議運動に参加し社会活動家、著作家としても活動。以後は日本を含め世界中を回って87歳で死ぬまで、目の見えない人や耳が聞こえない人、社会的弱者に対するケアと認識向上を訴え続けました。
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ヘレンケラー何をした?
ヘレン・ケラーと言えば、福祉活動が思い浮かびますが、実際には福祉のみならず広範囲な政治的関心を持って活動した人でした。ヘレンは当時としては先進的な思想を持ち主で、男女同権論者として婦人参政権の獲得やコンドームの使用を主張して女性の地位向上を訴えました。
現在からは考えられませんが、20世紀初頭はアメリカでもヨーロッパでも女性は男性より弱く能力も一段劣る、守られるべき存在と考えられていました。そのため、選挙権も被選挙権もなく、ただ家庭で良妻賢母として振る舞うのが望ましいとされ人格も十分には認められず親や夫の所有物のような扱いが続いていました。
ヘレンはその現状に憤り、男女同権と婦人参政権を唱えたのです。
また、ヘレンは人種差別反対論者でもあり過酷な児童労働や、死刑制度に反対し第一次世界大戦での大量殺戮にも反対しました。そして国家も階級も存在しない平等主義社会を目指してロシア革命を起こしたレーニンを20世紀の重要人物に挙げています。
しかし、社会主義に傾倒したヘレンの活動は危険視され、FBIはヘレンを要調査人物に挙げて身辺を調査していましたし、日本に来日した時も特別高等警察の監視対象になっていたそうです。
ヘレン・ケラーは自分が正しいと思えば、たとえFBIに監視をつけられてもモノともせずに自分を貫く強い意志をもつ人でした。
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ヘレンケラーすごいところ
ヘレン・ケラーのすごい所は、見えない聞こえないというハンディを克服して、言葉を発する事が出来た事でしょう。本来、生まれた時から目も見えず耳も聞こえないなら、言葉を習い覚える事は絶望的だからです。
しかし、ヘレンの場合には生まれた時からの聾唖ではなく、1歳と半年までは健常者だった事が幸いしました。
ヘレンは、幼少期に水に触れた時に、ウォーターと発音した事があり、サリヴァンに指文字でウォーターを教えられた時に、幼い頃に発したウォーターという言葉を思い出したのです。ヘレンは、指先で人の唇と喉に触れる事で発音を振動で感じ、指文字で質問された事に対し、言葉で返事をする事が可能になりました。
それはヘレンとサリバンの努力が産み出した奇跡だったのです。
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ヘレンケラーと水
水はヘレン・ケラーが言葉を話せるようになるのに大きな役割を果たしました。幼い頃にウォーターと発音できたヘレンは、幼い頃に手に触れた水の冷たさを覚えていたのです。
そして、サリヴァンと庭を散歩している途中に井戸のくみ上げ式ポンプから溢れる水を手に受けた時、ヘレンはそれが水だと直感しサリバンの手にwaterと指で何度も文字を書きました。
ヘレンは二度と話せないかも知れないと諦めかけていたサリバンは、ヘレンが水の感触とwaterのスペルを結び付けて覚えている事を知り希望を見出したのです。
その後、ヘレンは、血のにじむような努力の末、抑揚はないながらも話す事が可能になりました。
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三重苦であったヘレンケラー
三重苦とは、見えない、聞こえない、話せない地獄の苦しみを言います。
目が見えず、また聞く事も出来ないなら他人の声が耳に届く事もなく、自分の発声も聞く事は出来ません。それは、死ぬまで暗闇の中に1人だけ閉じ込められているような、耐え難い苦痛でした。
ヘレンケラー三重苦の原因
ヘレン・ケラーは1歳半年の時に、猩紅熱を原因とする髄膜炎に罹患し視覚と聴覚を失いましたが、その時にウォーターの言葉を発音出来た事や、家庭教師サリバンの指文字の教育や発声の練習により、話す事が出来るようになり孤独の暗闇を開いて、周囲に意思表示できるようになりました。
ヘレン・ケラーは三重苦を克服して話すという能力を獲得した人なのです。
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ヘレン・ケラー「広告塔で構わない」
社会運動家として活動していた若き日のヘレンですが、第一次世界大戦が始まると、ヘレンの平和主義は非現実的な思想とされ、次第に講演には人が集まらなくなりました。
さらに、アメリカが第1次世界大戦に参戦すると国中が戦争一色になり、愛国心を煽る世論が強くなって戦時公債が売れる一方で、社会的な弱者に対する支援が乏しくなります。
ヘレン達、視覚・聴覚障碍者に対する義援金も少なくなり暮らしに困るようになったヘレンは、世の中の無情を嘆くどころか、逆にハリウッドに進出して、自らの自伝を映画化した「救済」というタイトルの映画に出演したり、サリバンと共にボードビルショーに参加して、全米を回って公演したりしました。
映画「救済」は100%娯楽重視で笑って泣けて痛快なスペクタクルという、ヘレンの自叙伝とは似ても似つかない内容であり、興行収入もあまり上がりませんでしたが、ヘレンは「これは映画」と割り切って出演していたそうです。
ボードビルショーでは、自身がいかに三重苦を克服したかを師のサリヴァンと二人三脚でいささか脚色を交えて講演し、観客の質問に答えるなど大好評でしたが、一方でヘレンの行動を「自分の障碍を売り物にしている」と批判する人々も増えていました。
しかし、ヘレンはそれらの批判を気にしませんでした。事実としてお金に困っていて生活費を稼がねばならない現実もありましたが、自分が批判に対して委縮する事で、障碍者や社会的な弱者に対する認知度が落ちる事を危惧していたのです。
どのような形であれ、自分が広告塔になって社会的弱者に対する世論を喚起していくのがヘレンの信念でした。ヘレン・ケラーと言うと、とかく悲劇を克服した聖人として見られがちですが、このような現実的な視点とタフさと強かさを持った人だった事は忘れてはいけないでしょう。
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ヘレンケラーが尊敬した日本人
ヘレン・ケラーには幼少の頃から尊敬していた日本人がいました。
それが江戸中期の国学者であり、国学と国史をまとめた群書類従を著わした塙保己一です。保己一は埼玉県の農民の生まれで7歳で失明しました。しかし、学問への情熱を捨てられずに、絹商人から江戸には太平記読みと呼ばれる講談で暮らしを立てる盲人がいると聞いて、15歳で江戸に出て、盲人の職業団体である当道座に所属し、按摩や鍼、音曲の修行をします。
ですが保己一にはあまり才能がなく上手になりませんでした。
また、当道座では、借金の取り立てである座頭金の徴収がありましたが、大人しい性格の保己一には、上手くできずに絶望して自殺しようとしましたが寸前で止められます。
そこで、どうせ死ぬと覚悟した身だからと上司の雨富検校に学問がしたいと打ち明けると、検校は3年間打ち込んでダメなら国へ帰すという条件で許してくれました。
実際に保己一を国学や和歌の師匠につけると、驚くほどに博学多才で、これはモノになると踏んだ雨富検校により、高名な学者の下に就けられ、やがて盲人の大学者として世の中に名が知られるようになります。
ヘレンの母であるケイトは、この塙保己一を知っていて、ヘレンにも日本の塙保己一を手本にして励みなさいと教えたそうで、ヘレンは盲目のハンデがありながら学者になった保己一を尊敬し、後年、日本にやってきた時に保己一の座像や使用していた文机に触れて感激し、日本に来て最も有意義な事だったと語ったそうです。
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ヘレンケラーの恋愛
あまり知られていませんが、ヘレン・ケラーには結婚を誓った秘書でジャーナリストのピーター・フェイガンがいました。その時、ヘレンは36歳でフェイガンは29歳だったそうです。
フェイガンは独学で指文字と点字を覚え、ヘレンの手に自分がヘレンを慕っている事を告げました。
障碍者である自分に結婚など夢のまた夢と、あまり考えないようにしていたヘレンは、突然の申し出に驚き、躊躇し悩みますが、フェイガンの真摯な申し出に打たれプロポーズを受ける事にしました。
結婚を誓った2人ですが、その時、不運にもヘレンの師サリバンは体調を崩してヘレンの下を離れて療養中で、ヘレンの身の回りの世話をするために母のケイトが南部アラバマからやってきていました。
ケイトは進歩的なヘレンと正反対で南部の上流階級出身の女性らしく保守的でした。そして、娘の進歩的な思想をとても嫌っていたのです。彼女にとって最悪な事に、フェイガンもヘレンと同じく社会主義で平和主義であり、ケイトはフェイガンもとても嫌っていました。
ヘレンとフェイガンは、ケイトに事実を打ち明けず、内緒で役場に婚姻届けを出していました。極秘に結婚して、その事実は折を見て打ち明けようと考えたのですが、運の悪い事にその現場を地元の新聞にスクープされたのです。
すでに全米で知らない人はいない社会活動家になっていたヘレンには、今でいうパパラッチがついていたんですね。
新聞は面白おかしく2人の結婚を書き、保守的なケイトは新聞を見て怒り狂いました。「ヘレン!あんなやつと何をしでかしたの。新聞は、あなたとあの男の恐ろしげな話題でいっぱいじゃないの。どういう事!全部私に話しなさい」
ケイトの怒りようは、36歳の大人の女性に対するというよりも、10代の少女に向けられたものに見えました。幼い頃にヘレンを過保護に甘やかしたまま、ケイトの心は止まっていたのでしょう。
勝気で頑固なヘレンですが、あまりのケイトの怒りように怯え新聞報道を否定します。けれど、役場で書いた署名は否定しようがありません。
ケイトは、こんな所にヘレンを置いてはおけないとアラバマに連れ帰ろうとし、婚約者のフェイガンは、それを追い駆けなんとアラバマのヘレンの家まで来たそうです。
しかし、ケイトに命じられたヘレンの妹の夫がフェイガンにショットガンを向けて「死にたくなけりゃ二度と、この家に近寄るな」と脅しました。
フェイガンは、この仕打ちにヘレンとの結婚を諦め別の女性と婚約しました。ヘレンも以後、生涯独身を貫いたという事です。もし、フェイガンがプロポーズした時に、ケイトではなくサリバンがいてくれたら2人の運命も違ったでしょうが、残念な事です。
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ヘレンケラーのエピソード
ヘレン・ケラーは負けず嫌いで努力家でした。
特に「お前には出来ない」と言われると、増々ファイトを燃やしてやり遂げようとする性格でラドクリフ・カレッジに入学したのも、当時の学校がヘレンに理解がなく、盲聾者が入学できるわけがないと突き放された事に反発したからだそうです。
ラドクリフ・カレッジは入学したヘレンの為に特別待遇は一切しませんでしたが、ヘレンはサリヴァンのサポートを受けて、これを乗り越えたのです。
ヘレンは同時に弱い者や悲しんでいる者に対して優しい人でした。
ある時、ヘレンが飼っていた犬が事故で死んでしまい、周囲はヘレンの為に新しい犬を買ってあげようと募金を募っていました。その時、孤児院の神父が盲聾に苦しむ5歳の男子の話をヘレンにすると、ヘレンは
「犬はいらないから、男の子を救ってあげて」と言ったのです。
ヘレンは、孤児でお金がない男の子に教育を受けさせてあげたいと思い、周囲に寄付を募り、ヘレンも新聞に手紙を出して募金を呼びかけました。
その結果、当時のお金で1600ドルもの大金が集まり、男の子は、そのお金を奨学金にしてパーキンズ盲学院に入学する事が出来たのです。
またヘレンは、優しいだけではなく、言うべきことは言う厳しい人でもありました。彼女は、戦前と戦後の3回に渡り日本を訪問しましたが、1955年最後の日本訪問の時、75歳になっていたヘレンは講演でこう言ったそうです。
「三重苦の私を、日本の皆様が心からご歓待くださるので感謝にたえません。しかし、あなたがたの国、日本には私以上に不幸な人たちがいるのに、何故その人たちにもっと温かい手をさしのべてくださらないのでしょうか?」
ギクッとする一言です。
ヘレンは著名人のみをちやほやし、身近にいる不幸な人たちに冷たい日本人の欺瞞を見逃す事が出来なかったのでしょう。そこはFBIに社会主義者としてマークされながら、弱者の立場に立つという信念を曲げなかったヘレンらしいエピソードです。
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ヘレンケラーの名言
健常者には想像もつかない、三重苦を乗り越えたヘレン・ケラーの名言を紹介します。
自分でこんな人間だと思ってしまえば、それだけの人間にしかなれないのです。
私たちは年齢を重ねると「どうせやっても無駄」と言い訳が上手になって挑戦する事を忘れます。ヘレンは盲目で耳が聞こえないからと自分を諦める事無く、健常者のように乗馬に挑戦し、複葉機にも搭乗したそうです。
もしもこの世が喜びばかりなら、人は決して勇気と忍耐を学ばないでしょう。
人間は弱いので、目の前の困難から逃げよう避けようとし、いざ困難にぶつかると、こんな筈じゃなかったとか、神様なんかいないと愚痴をこぼします。しかし、困難や悲しみに直面する事で人は忍耐を学び、困難を乗り越える勇気を得て、前よりもずっと立派な人間になる事が出来ます。
楽な道だけを選んでいると、人は堕落して本当の勇気や忍耐を学ぶチャンスが失われる。三重苦を乗り越えたヘレンの名言だけに重く響きますね。
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ヘレンケラーの死因
1961年、ヘレンは81歳の時に軽い脳卒中に罹り、以後は次第に外界との意志疎通が難しくなっていきました。
目も見えず、耳も聞こえないヘレンにとっては指文字によって周囲の意志を確認しますから脳卒中で脳の機能が衰えるのは周囲との意思疎通を難しくするのです。84歳の時、ヘレンには、これまでの多大な功績から大統領自由勲章が贈られ、88歳の誕生日の4週間前に老衰で死亡しました。
ワシントン大聖堂でヘレンの葬儀が行われ、地下礼拝堂壁内の納骨堂に生涯の師だったサリヴァン、秘書のトンプソンと共に葬られています。ヘレンの死後、日本政府からも勲一等瑞宝章が贈られました。
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世界史ライター kawausoのまとめ
今回は三重苦を乗り越え、障碍に苦しむ人々に勇気と希望を与えたアメリカ合衆国の偉人、ヘレン・ケラーを紹介しました。三重苦を乗り越えた偉人と聞くと、自他ともに厳しく近寄りがたい人をイメージしますが、実際のヘレンはそのような事はなく、世慣れていて、タフでチャーミングでした。
また、同時に並外れた情熱を持つモーレツな女性であり、自分が正しいと信じた事は臆する事なく貫き、ヘレンが訪れるとケチな大金持ちも募金を断る事が出来ず観念したとする逸話もあります。
また、そういう人柄だったからこそ、多くの人の支援を受け、活動の幅を全世界に広げる事も可能だったのでしょう。
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