蜀は龍を手に入れた、呉は虎を手に入れた、そして魏は狗を手に入れた。龍とは諸葛亮、虎とは諸葛瑾、そして狗とは諸葛誕のことを意味します。意味合いとしては別に諸葛誕を卑下しているのではなく、狗のように功を立てた忠義心のある人物、という評価と言われていますね。
さてその諸葛誕は反乱を起こして討伐されてしまうのですが。この反乱の理由について、今回は穿って考えてみたいと思います。
諸葛公休
諸葛誕、字は公休。呉の諸葛瑾、蜀の諸葛亮とは従弟に当たる人物で、諸葛誕もまた優秀な人物であったと言われています。そして二人とはまた違い、彼が仕官したのは魏でした。
そこで彼は夏侯玄らと共に「四聡八達」という、四人の聡明な人物と八人の達人という意味の呼び名で呼ばれていました。ただし時の皇帝、曹叡からはその評価を「画餅」とされ、遠ざけられました。
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曹叡没後
さて諸葛誕は曹叡からは冷遇されていましたが、没後には復帰。これには当時の魏の実権を握ったのが曹爽だった、ということも影響していたと思われます。
しかしその曹爽が司馬懿と権力争いにて破れ、曹爽と親戚関係であった夏侯玄は失脚していくことになりますが、その中でも司馬氏に諸葛誕は重用されていくことになります。
因みに姜維が降伏した時に鍾会が「諸葛誕や夏侯玄でも彼以上ではあるまい」と姜維を評価したとされることから、諸葛誕、そして夏侯玄は当時の魏では名士の代表格であったと思われます。
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重用されている、が
諸葛誕の娘は司馬懿の四男、司馬チュウに嫁いでいるなどして、何気に縁戚関係を結んでいた諸葛誕。その後は王淩の討伐を行ったり、毌丘倹、文欽が反乱を抑えるなど、順当に活躍を重ねました。
また興味深いのが呉の虎の子、諸葛恪との戦い。ここでは諸葛誕は敗北、そして諸葛恪は大勝利してしまうことになります。これが後の諸葛恪の失脚に繋がっていってしまうなどは、もしかしたらこの時点では誰も……
「家を大きくするのはあの子ですが、家を潰してしまうのもあの子でしょう」……父親の諸葛瑾は、ある程度予測していたかもしれませんが、まあそれは別のお話。
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疑心暗鬼を生ず
司馬氏にも重用されていた諸葛誕ですが、内心は穏やかではなかったようです。夏侯玄の死後、いずれ自分も討伐した王淩や毌丘倹のように司馬氏により滅ぼされるのでは、と疑いを持つようになりました。
このため諸葛誕は私兵を募るようになり、この動向を伺った司馬昭は早めに謀反を起こさせるように画策します。そして257年、諸葛誕は司空に任じられることになり、洛陽へ召還されます。これを怪しんだ諸葛誕は遂に反乱を起こすこととなるのでした。
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