西暦200年に袁紹と曹操が中原の賭けて争った官渡の戦いは、前哨戦である白馬の戦いから見ると約8ヶ月。官渡砦の戦いだけでみれば、わずか2ヶ月ほどで決着が付いています。
しかし、曹操が袁紹の息子たちを破り、烏桓族を討伐して河北を平定したのは207年と7年あまりの時間が経過しています。なぜ曹操は河北統一にここまでの時間がかかったのかを見ていきましょう。
官渡の戦いの後
曹操は敗走する袁紹を追撃しますが、袁紹が黄河を渡ったため逃してしまいます。ただ、逃げ送れた兵のうち心から屈していないものは生き埋めにされ、8万という兵士が殺されました。加えて冀州では多くの城が降伏し、袁紹はそれらの平定に奔走します。
曹操は袁紹への追撃を考えますが、頼みとしていた東平郡安民という地の糧食が少なかったことから断念。
曹操は一度袁紹を諦めて狙いを劉表にしようとしますが、荀彧は先に袁紹を討つよう進言しています。
反乱を平定した袁紹は平丘(現在の封丘県)より渡河して陳留経由で許都襲撃を計画。しかし、袁紹の狙いを読んだ荀彧の進言によって曹操は201年4月に北上し、倉亭に駐屯していた袁紹軍を破りました。
これにより冀州では再び反乱が起き、袁紹は鎮圧へと向かいます。曹操は一度許都に戻りますが、劉備が汝南を攻撃していたために自ら討伐へ向かいました。
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袁紹の死と内紛の発生
劉備は荊州の劉表の元へ逃亡したため、曹操は202年の春に再び官渡へ進軍します。
同年5月に袁紹は病となり、血を吐いて死去。
その際、後継者を決めていなかったことから、長男である袁譚と袁紹が溺愛していた袁尚を推す派閥間の対立が発生します。
後漢書の袁紹伝によれば袁尚派の審配と逢紀は袁紹の遺命を偽り、袁尚を後継者としました。
袁譚は不満を懐きながらも車騎将軍を自称し、曹操の動きに備えて前線である黎陽に駐屯。袁尚も逢紀を監軍として小規模な援軍を送りますが、袁譚はさらなる増援を要求。袁尚がこれを拒否したために逢紀は殺されます。
202年9月に曹操が北上を始めると、袁尚も自ら兵を率いて袁譚とともに前線で戦いました。
しかし、9月から翌年の2月までの間に連敗を重ね、黎陽を放棄して撤退。曹操は鄴城の近くまで追撃し、鄴城の南東にある陰安を落として許都へと帰還しました。
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袁譚と袁尚の対立が激化
危険が去ると袁尚と袁譚は冀州の領有権を賭けて本格的に争うようになります。曹操はこのタイミングで劉表を討とうと荊州との境にあたる汝南郡西平へ駐屯します。
しかし、袁尚との戦いに敗れた袁譚が曹操へ救援要請をしたため、曹操は戦わずに西平から撤退。曹操は一切攻撃する素振りを見せない劉表は一度捨て置き、河北を平定することを決めます。
袁尚は袁譚を追って平原を攻撃していましたが、曹操が攻めてきたことで鄴城へ帰還。204年の正月、曹操は糧道の確保を行っていたため、城に審配と蘇由を残して袁尚は再び平原へ進軍します。
曹操が兵を進めると守将の蘇由は降伏し、残った審配が城を堅守。4月に曹操は別働隊を率いて周囲の城を次々と落とし、5月には水攻めで審配を苦しめます。
7月に袁尚は救援に来ますが、曹操に敗れて中山へと逃亡。城内はすっかり士気が落ち、8月に審配の甥である審栄が東門を開いて兵を引き入れたために鄴城は陥落し、審配も殺されました。
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冀州と并州の陥落
曹操が鄴城を落とすと并州の刺史であった高幹は降伏し、曹操は9月に冀州牧となります。しかし、その間に袁譚は冀州の東部を攻略。さらに中山に逃亡した袁尚を攻撃して兵を吸収し、曹操に背いたために攻撃を受けます。
205年正月、袁譚は郭図とともに殺されました。袁尚は袁煕のいる幽州涿郡の故安へ逃げますが、そこで袁煕の部下であった張南と焦触が反乱を起こしたために烏桓を頼って遼西へと落ち延びます。
4月には黒山賊の張燕が曹操に降伏しますが、烏桓族が漁陽郡にある獷平県を攻撃。曹操はこれを撃退し、10月に鄴城へ帰還します。
それから一度降伏した高幹が反乱を起こしたために楽進と李典に攻撃をさせます。翌年の正月に自ら高幹討伐に向かい、3ヶ月の包囲戦の末にこれを攻略。高幹は荊州へ逃げたものの、捕らえられて殺されています。
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