皆様ズバリ、パリピ孔明はご存知でしょうか?
三国志を取り扱った作品は古来よりたくさん、ええ、たくさんありますが、パリピ孔明とはその中でもかなり特殊な設定の漫画作品、それが人気となってドラマ化され、更には向井理主演「パリピ孔明」が『パリピ孔明 THE MOVIE』として映画化もされました。
さてこの作品のタイトルとも言えるパリピ「孔明」、この孔明とはご存知、三国志の中でもハイパー有名な諸葛孔明という人物のこと。ですが三国志沼に浸かったばかりの皆さまは、この孔明という人物がどんなに奥深いか、まだまだご存知ないかと思います。
今回は知れば納得、諸葛孔明とはどんな人か徹底解説!ぜひ諸葛孔明という人物に触れることで、「パリピ孔明はどんな人?」なのかもより深く知って頂きたいかと思います。
この記事の目次
諸葛孔明の基本情報:本名と生涯
さて諸葛孔明、またの名を諸葛亮とも呼ばれる人物ですが、姓は諸葛、名は亮、そして字(あざな)を孔明と言います。基本的に姓と名、もしくは姓と字で呼ばれるため、「諸葛亮」か「諸葛孔明」表記となります。ただ姓と名で呼ぶのは親か主君、つまりその人よりも高位の人物のみに許されたということもあり、姓と字で呼ぶことが当時は相手に対する礼儀でもありました。この諸葛孔明は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家であり、武将の一人です。
しかしその諸葛孔明も若い頃は誰に仕えることもなく弟と共に庵に引きこもり、その一方で自分を古の名将・管仲、楽毅に比類する、と豪語している人物でもありました。
そんな諸葛孔明を自らの配下に、三顧の礼と呼ばれる礼を尽くして招いたのが、後の漢の皇帝、劉玄徳です。この時の恩を諸葛孔明は生涯忘れず、劉玄徳の死後もその遺志を受け継ぎ、国に尽くした忠義心のある人物としてもまた、有名な人物でもあります。
諸葛孔明のイメージは?彼の三国志における役割とは
ではここで皆さん、諸葛孔明というとどんなイメージがあるでしょうか?
羽扇を持ち、漢服一式に、ちょっと膨らんだ巾を被って、何だか良く分からないことを言っては全てを見通してビームとか撃ったりする……コホン、最後はともかく、こんなイメージがあるのではないでしょうか。
これらのイメージは主に清時代に築かれたイメージ、もしくは三国志演義で広まったイメージであり、特に三国志演義での諸葛孔明は有能な政治家や軍師というよりはちょっとした呪術師に近いものがあります。しかし忠義心やその能力については実際の諸葛孔明も非常に深く、最後の五丈原の戦いでの死、更には出師表のエピソードは涙無くしては聞けないエピソードとして有名なほど。
これらを統合すると、三国志における諸葛孔明の托割はただ能力に優れている劉玄徳の皇帝への立役者だけではなく、その背景にある恩を返すために、並々ならぬ忠義心を抱いて亡き主のために尽くした人物、そういうある種の「狂気」に近い感情を持った一人の人物としても記されています。これらのイメージは実際に色々な話を知って頂きながらより読者の方々に深めていっていただけると幸いです。
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諸葛孔明の思想と戦略が分かる、その名言
諸葛孔明の戦略家としての一面を語るとなると様々な戦いが挙げられますが、ここで注目して頂きたいのが劉備亡き後の益州南部の平定です。
ここで諸葛孔明はただ武力で敵を従わせるのではなく、「七縦七擒」に準え、異民族である孟獲らの心を捉えたとされています。
「七縦七擒」とは七回捕まえ七回放つことで、『華陽国志』によると諸葛孔明は孟獲を心服させることで南軍の者たちを心から従わせることに成功したとされています。因みに諸葛孔明の名言の一つに「夫れ用兵の道は、人の和に在り」というものがあります。
これは「人を統率しようとするなら、人の和を得ることが大事」という意味で、多くの人々を統率しなければならなかった諸葛孔明だからこそ残した名言とも言えるでしょう。強制的に従わせるのではなく、まずは人の和、その人自身から従おうと思うように対応すること。これこそが諸葛孔明の信念であったのではないでしょうか。
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諸葛孔明の人間性、その人柄とは
ここで諸葛孔明の背景についても少し触れていきましょう。諸葛孔明は父・諸葛珪を早くに亡くし、弟と共に叔父に連れられて南へ移住しました。しかしこの叔父さん、『献帝春秋』によりますと民衆の反乱にあって処刑されたとされています。因みに漫画、横山三国志では若い頃から苦労してきた諸葛孔明の姿が描かれていますので、知らない方はぜひ一度見てみて下さい。
ともあれ短いエピソードながら、書生時代は自らを管仲、楽毅に比類するとか言っちゃっていた諸葛孔明が、実はそれなりに苦労の日々を送っていたことが伺い知れるのではないでしょうか。
しかし自らを評してもそれを認める人物は殆どおらず、そんな中でやってきたのが三顧の礼で諸葛孔明を招き入れた人物である劉玄徳です。
この事を晩年まで諸葛孔明はしっかりと覚えており、劉備の子、劉禅への出師表でも言及しているので、よほど嬉しかったのでしょう。だとするのならば、才覚に優れているとはいえちょっと不遜だった諸葛孔明が「人の和」と言い出したのは、劉玄徳の影響でもあったのかもしれませんね。
それを踏まえると、三国志演義での劉玄徳がやたら仁徳に溢れた人物に描かれるのも、ある意味納得です。そういう意味では、諸葛孔明は三国志演義の流れを作った人物、と言えるのかもしれません。
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諸葛孔明に関する良くある質問・その呼び方と死因
因みに諸葛孔明に関する良くある質問で、「諸葛亮孔明とは言わない方がいいですか?」というものがあります。前述したように、諸葛は姓、名が亮、孔明は字です。そして基本的に、名と字は共に使うことはありません、どちらか一方のみの表記になります。
なので「絶対に使うな!」とは言いませんが、基本は「諸葛孔明」もしくは「諸葛亮」どちらかの呼び名の方がよろしいでしょうね。
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諸葛亮の死因:過労死説
また、昨今では三国志における諸葛孔明の死因についても、ほぼほぼ過労死に近いものではないか、と言われていますが、一応、歴史的には「病死」ということになっています。
劉玄徳の死前後は蜀は人材難ともいえる状況に陥っており、その上で幾度も繰り返す北伐が、蜀の地力だけでなく、諸葛孔明の命もすり減らしてしまったのかもしれません。
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日本における諸葛孔明の知名度と人気、影響と彼に纏わる四字熟語
ここでちょっと、諸葛孔明にまつわる四字熟語から紹介しましょう。諸葛孔明が関係したと言われる四字熟語はいくつかありますが、日本での知名度も踏まえて紹介したいのが
「孔明臥竜」です。
読んで字のごとく、孔明は臥せる竜であるということ、転じて、まだ世間に知られていない、素晴らしい才能をもつ人を例えることを言います。
これは正史三国志で諸葛孔明を、友人である徐庶がそう例えたことに起因するもので、正に諸葛孔明を体現した言葉であり、また、この後に劉玄徳が諸葛孔明を三顧の礼で迎えたことも踏まえ、日本では豊臣秀吉を竹中半兵衛が三顧の礼で迎え入れた、とも言われています。
この日本版:三顧の礼は実際の出来事かははっきりしていませんが、それでも昔から日本では諸葛孔明と言えば三顧の礼であり、その知名度も押して然るべきものであると言えるでしょう。
更に横山三国志を始め、パリピ孔明のように、多くは三国志演義での諸葛孔明のイメージと言えど、漫画の題材とされるほど、諸葛孔明は現代でも幅広く知られており、人気だけでなく、多くの人にその影響を与える存在となっていると思います。
優秀さ、非凡さだけでなく、更に人格、衣装なども踏まえたキャラクター性まで含めて、諸葛孔明は我々日本人に深く浸透している人物、と言えるのではないでしょうか。三国志自体は中国の歴史であることを考えると、何だかとても面白いですね。
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諸葛孔明の有名な逸話とエピソード「孔明の嫁選び」とは
さて、諸葛孔明の色々な話をご紹介しましたが、最後にその有名な逸話を一つご紹介しましょう。
「孔明の嫁選び」です。
これは歴史書、正史三国志の諸葛亮伝の註に引かれているもので、黄承彦という人物が諸葛孔明が嫁を探していると聞いてやってきて「自分の娘は金の髪に褐色の肌だが、才知があり、君とお似合いだ」と娘を進め、諸葛孔明はこれを了承してその娘、黄夫人を嫁にしました。
しかし当時としては金の髪に褐色の肌は人々の美人センスにはそぐわなかったのか、皆はこれを笑って「孔明の嫁選びを真似るなかれ、黄承彦の醜い娘を貰うことになるぞ」と笑ったことに起因します。
しかし黄承彦と言えば当時は名士中の名士、その人物の娘をいくら醜いとは言ってもそうそう歌にして囃し立てるだろうか?という疑問もあり、色々と考えてしまうエピソードとなっています。
因みにこちらの黄夫人、姓名まで伝わってはいないものの民間伝承では名前があり、黄月英とも呼ばれます。そう、パリピ孔明で、諸葛孔明がマネージャーを務める相手、もう一人の主人公とも言える存在が「月見英子」ですね。同じく金髪ということもあり、彼女の名前の由来はおそらくこの黄夫人からきているのでしょう。
もちろんこれにのみならず、多くの三国志のエピソードがパリピ孔明には細部に取り込まれており、それを知ることでより諸葛孔明を知れるだけでなく、作品自体も楽しめることでしょう。ぜひパリピ孔明から諸葛孔明を知ったという人たちは、三国志沼、浸かってみませんか?
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三国志ライター センのひとりごと
ちょっと最後はパリピ孔明に話が傾いてしまいましたが、筆者もパリピ孔明はとても楽しんでいる作品です。実は当初は話の冒頭で「なんで戦いの無い世界なんかいきたいの!貴方進んで五丈原いったでしょ!」なんて無知蒙昧な感想を抱いたものですが、よくよく考えてみれば諸葛孔明ははなから戦好きであったことはありません。
寧ろ若い頃苦労してきた分、戦を忌避していてもおかしくはないでしょう。逆に本心では戦を忌避していながら、何かに突き動かされるように北伐を繰り返していたとするならば……そう考えることで、より諸葛孔明という人物を多角的に見るきっかけとなったと今では思っています。
いやあやはり三国志、いつまで経っても「面白い」ですね。どぼーん。
参考:蜀書先主伝 諸葛亮伝
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