腐っても鯛というように、どんなにだらしがなくても、兄貴は兄貴です。一方で、弟に負けず劣らず兄が優秀で、弟は、兄に頭が上がらないというようなケースも、まま存在します。後に、孫が天下を統一した事で、皇帝位を追贈された司馬懿(しばい)の兄、司馬朗(しばろう)も、そんな立派な兄貴の一人でした。
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司馬朗は、秦末の名将、司馬卭(しばごう)の末裔
司馬朗の先祖は、キングダムの時代である秦の末期に登場した司馬卭です。元は、趙で、あの李牧(りぼく)に仕えて、王翦(おうせん)や王賁(おうほん)とも戦った司馬卭ですが、李牧が秦の計略で死に追いやられ、趙が滅亡すると、誅殺を恐れて逃亡し、陳勝(ちんしょう)・呉広(ごこう)の乱に呼応して、最初は武臣(ぶしん)に仕え、武臣の死後は、張耳(ちょうじ)に仕えるなどし河内平定などに手柄を立てています。秦滅亡後の項羽(こうう)の論功行賞では、河内の地周辺を与えられ殷王(いんおう)に封ぜられます。
その後、司馬卭は、劉邦(りゅうほう)に敗れて項羽を見限って漢に仕えますが、項羽の大軍に劉邦軍が撃破された彭城の戦いで戦死します。司馬朗は、この司馬卭から数えて12代目の子孫です。
司馬朗の父、司馬防は、厳しい人物として有名だった。
司馬朗の父は、司馬防(しばぼう)と言い、字は建公です。曾祖父、司馬鈞(きん)は、漢の征西将軍にまでなった名将。祖父、司馬量(りょう)は、豫章太守を務め、父の司馬儁(しゅん)は潁川太守でした。そんな名門の家系に生まれたせいか、司馬防は、若い頃から厳格な性格で、どんなにリラックスしている時でも姿勢を崩さず、ぼんやりしている顔を見た人間はいなかったようです。そして、絶えず、立派な人間になろうと努力していたらしく、漢書の名臣列伝を愛読して、すべて、暗誦出来る程でした。そんな努力家の司馬防も、出世し、州郡に取り立てられ、洛陽県令から京兆尹にまで出世しました。京兆尹とは、いわば長安の都知事で、宰相に昇る人間が、その力量を見る為に就任するエリートの出世コースのポストです。残念ながら、防は、腐敗が横行していた後漢王朝では、宰相まで昇れず、騎都尉として勤めを終え、老後は田舎に住み、質素で厳格な暮らしを続けます。
子供達にまで厳しい、司馬防
そんな司馬防は、子供達に対しても厳格でした。彼には、8名の男子がいて、いずれも優秀で司馬八達と言われましたが、子供達が成人した後も、許可がないと父の部屋に入る事は出来ず、また、許しを得ない限り、口をきく事も出来ませんでした。
そんな厳格な父の元、西暦171年、長男として司馬朗は誕生します。司馬防が、我が子をどのように教育したかは、上記の司馬防の性格を、考えると、理解できると思います。司馬朗は、父譲りの厳格で、しかし暖かい性格の持ち主に育ちます。
年齢詐称を疑う試験官に、堂々と反論
司馬朗は、十二歳で、経典を暗誦してみせて試験に合格。童子郎(どうじろう)に取り立てられます。しかし、司馬朗の体が大きく、あまりに見事な暗誦だったので、ある試験官は、朗が年齢を詐称しているのではないかと疑い、別室で問い詰めました。
「君、怒らないから正直に言いなさい。君は本当は十二歳ではないだろう?十二歳にしては、体が大きすぎるではないか。」
この試験官は、司馬朗が、年少で童子郎に取り立てられたという箔をつける為に嘘をついていると思ったのです。すると司馬朗は、堂々と反論します。
「我が司馬氏は、代々、大柄な家系であり、私が大きいのも遺伝です。あなたは、私が年齢を誤魔化して、年少でも優れていると宣伝したがっているとお疑いですが、私は元来、出世欲などありません。私は本当に十二歳なので、十二歳と言っているだけなのです」
試験官は、果たして、司馬朗が本当に十二歳と知り、疑った自分を恥じました。
暴君、董卓に堂々と意見を述べる司馬朗
西暦190年、洛陽の大混乱の隙をついて、西涼から入ってきた軍閥、董卓(とうたく)は、献帝(けんてい)の後見人として、次第に暴君の本性を現します。当時、治書御史をしていた、司馬朗の父、防は、董卓の暴力政治は、さらに激しくなると見越して、19歳になっていた司馬朗に、一族を連れて、故郷に帰るように命じます。しかし、その事を董卓にチクった人間がいました。怒った董卓は、司馬朗を逮捕して問いただします。
「オガッ!!おめえ、故郷に帰るって聞いたけど、本当っぺか?なんして、これからっつー時に、オラを見捨てるような事すんだべ!」
すでに暴君として異様な迫力を持つ董卓ですが、司馬朗は怯えたそぶりもなく堂々と反論しました。
「私が故郷に戻るのは、乱世の影響が故郷にも及び、田畑が荒廃して、民が飢え死にするのを黙って見ている事ができないからです」
その堂々とした反論に、董卓はオガッ!と感心しましたが、やはり、故郷に帰還させる事を許しませんでした。
いざという時には賄賂も辞さない度量
司馬朗は、その事を知ると、董卓の側近に賄賂をまわして買収。まんまと洛陽の城門から脱出する事に成功します。一族が危ない時には、清廉潔白にこだわらず、計略を使って、道を切り開くというのは、弟の司馬懿にも通じるしたたかさですね。
司馬朗、曹操に見出されるも、年齢詐称疑惑・・
故郷に帰った司馬朗ですが、数え年、22歳の時に、当時、後漢の司空になっていた曹操から呼び出しを受けて、司空掾属(しくうえんぞく)に任命されます。これは、司空となった曹操をサポートするスタッフです。それから、司馬朗は、成皋(せいこう)の県令などの地方官のポストを歴任します。しかし、ここで履歴的にオカシイ事が発生します。司馬朗の数え年22歳とは、西暦193年前後になり、まだ、曹操は司空どころか献帝を許に迎えてさえいないのです。曹操が司空になるのは、西暦196年の事なので、もし、これを正しいとすると、司馬朗は数え26歳という事になります。となると、12歳の時に、童子郎になったというのは、4歳プラスして、16歳という事になり、試験官の疑った年齢詐称疑惑が真実味を帯びてしまうのです。
もしや、司馬朗の年齢詐称疑惑は事実だったのか?
事実なら、よくあるアイドルの年齢詐称と同じで、「ほお~、、結構、ツラの皮厚いやんけ、司馬朗?」という話です。
まあ、ただの史書の年齢ミスかもしれないので、本当の所は、司馬朗しかわからないんですけどね。
善政を敷いて領民に慕われる 司馬朗
地方官僚になった司馬朗ですが、病の為に、一時仕事を辞めて故郷に戻ります。そして、病が癒えると出仕して、県長になり、そこで善政を敷いて、領民に慕われるようになります。その噂は曹操まで届き、再び、中央に呼び戻されて、今度は丞相になっていた、曹操のスタッフとして、丞相主簿に任命されます。その後に司馬朗は、兗州(えんしゅう)刺史(しし)に任命されて、寛大で領民を慈しむ政治を心がけたので、広く領民に慕われ、称えられました。
戦場で疫病が流行した時、部下に優先して薬を分け与えた司馬朗
司馬朗の死は、突然にやってきます。西暦217年、曹操は重臣の夏侯惇(かこうとん)を大将にして、南の孫権(そんけん)と雌雄を決しようと遠征を開始します。兗州刺史だった司馬朗も、これに従軍していますが、交戦中に疫病が大流行し、魏軍にも沢山の患者が出ます。薬が足りない中、司馬朗は、自分は薬を飲まず、兵士に率先して与えたので、ついに疫病に倒れ、そのまま帰らぬ人になります。司馬朗、享年 46歳でした。
弟、司馬懿には、まったく見劣りする司馬朗
司馬朗は有能な行政官僚でしたが、ハッキリ言いまして、わざわざ魏書で、個別の伝を立てられるような活躍をしているとは言えません。実際、司馬朗程度の行政官僚で、伝が無い人などは幾らでもいるからです。司馬朗に、わざわざ伝が立てられている理由、そこには、やはり司馬懿という晋(しん)の礎を築いた英雄の兄という司馬朗のポジションが影響していると言えるでしょう。
実際に、人物評をよくする崔琰(さいたん)は、司馬朗に、「君は弟の才能には及ばない」と告げていますし、司馬朗は、それに怒った様子もありません。司馬朗も、弟の優れた才能を見抜いていたのでしょう。
曹操と司馬懿を引き合わせた司馬朗
それでも、曹操が司馬朗を、優秀な行政官僚として、重用したのは、確かで、最初は、司空掾属、次には、丞相主簿と、二回に渡り、自身の手足として使っています。特に、二回目の丞相主簿の時には、西暦208年で、この年に、曹操は、司馬懿を脅迫に近い方法で召し出して仕えさせています。そこには、間違いなく、あの司馬朗の弟なのだから、有能に違いないという曹操の算段が働いていた事でしょう。
無理やりに働かされた司馬懿ですが、ここで、後に主君となる、曹丕(そうひ)との交友も生まれ、後の魏の重臣への階段を昇る事になります。まさに、司馬朗がいなければ、司馬懿の出世の道は無かったか、或いは、かなり違ったものになった可能性もあるのです。
三国志ライターkawausoの独り言
司馬の八達と言われ、いずれも優秀だったとされる司馬氏の8兄弟ですが、功績が残っているのは、司馬懿と司馬朗、そして、司馬懿の弟である司馬孚(しばふ)の3名位です。その中で司馬孚は、司馬一族でありながら、最後まで魏を擁護し、兄の子供や孫達の態度とは一線を画しました。また、才能も兄、司馬懿に匹敵し、諸葛亮の北伐には、財政面で貢献し、魏の曹叡(そうえい)は、「私は司馬懿を二名得た」と喜んだそうです。一見、一族で、魏を私物化したかに見える司馬氏ですが、実は、司馬八達の中で見ると司馬懿と彼の子孫が異質なのであって、司馬氏自体は、結構義理堅い人達のようですよ。
本日も三国志の話題をご馳走様・・
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