三国志の覇王曹操。この曹操の覇業のクライマックスが官渡の戦いです。この戦いで曹操は幼馴染みで親友でもあった強大な袁紹を撃破して華北をほぼ平定し、並ぶ者がない群雄となりました。しかし、実際の曹操は袁紹の友達と言うよりパシリと呼べるような下っ端だったのです。
この記事の目次
曹操は最初張邈の部将
曹操は、反董卓連合軍の頃から袁紹を盟主とする諸侯連合に参加していますが、その時点では州牧でも太守でもないので自前の土地も兵もいませんでした。その時、曹操に家財を処分してまで軍資金を貸したのが衞茲という人物ですが、この人は張邈の部下なのです。
張邈は陳留太守であり衞茲も陳留の人、曹操の募兵も陳留郡でおこなっているので、いずれも張邈が関与していると考えて間違いないでしょう。ここまでしてくれるのですから、曹操と張邈が親友であったというのは疑いないですが、曹操は独自の領地があるわけでもないので、張邈の部下扱いだったと考えられます。
また、このあたりまで、曹操と袁紹には絡みがありません。袁紹は反董卓連合軍の盟主なので、張邈よりも立場が上であり、曹操と直接絡むこともなかったのかも知れません。
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張邈を見限り袁紹に従属
卞水で大敗した曹操は募兵の為に揚州まで移動しますが、そこで募兵に反乱を起こされ、500名程度の兵で戻ってきます。しかし、ここで曹操が頼ったのは張邈ではなく河内の袁紹でした。兗州に帰還しなかったのは張邈が曹操に援助できなかったので関係が切れてしまったと考えられます。曹操が薄情に見えますが、領地を持たない曹操は少しでも自分を高く買ってくれる群雄に自分を売り込みたかったのでしょう。
この頃の逸話として、袁紹が劉虞を擁立して董卓の推す献帝に対抗させようと画策し、曹操が否定したという逸話があります。また、この時、袁紹が玉璽を肘にかけて見せびらかしたのを曹操は表面上笑って見ていたものの、内心では憎んだという話もあります。いずれにせよ、ここで袁紹に反発しても曹操には寄って立つ場所がないので我慢したのでしょう。
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曹操がチャンスをモノにする
ただし、手柄を立てない限り、袁紹も曹操を重く使うような事はありません。焦る曹操ですが、ここでチャンスがやってきます。西暦191年の秋、黒山賊の白繞や眭固が十余万の軍勢で魏郡・東郡で略奪を繰り返したのです。当時の東郡太守王肱は黒山賊を防げなかったので曹操は兵を率いて東郡に入り濮陽で白繞を撃破しました。袁紹は、喜び献帝に上表して太祖を新しく東郡太守に任命し東武陽で治めさせます。この時、初めて曹操は東郡太守の地位を手に入れて、自前の兵士を養う事が可能になりましたが、その地位は袁紹の沢山いる配下の1人だったのです。
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青州黄巾賊を味方に加える
西暦192年4月、青州黄巾賊百万が兗州に侵攻し、兗州刺史の劉岱は、鮑信が諫めるのも聞かずに撃って出て殺害されました。ここで鮑信が白羽の矢を立てたのが曹操でした。曹操は兵を進めて黄巾賊を撃ち、鮑信が戦死するほどの大ダメージを受けながら撃破します。そして、どんな手段を使ったのか不明ですが全体で百万人もの黄巾賊を投降させて、兵力の増強に成功します。
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袁紹の配下として公孫瓚を破る
ただし、曹操の立場は相変わらず袁紹の部下でした。この頃、袁術と袁紹は抗争していて袁術は公孫瓚に救援を求めます。公孫瓚は劉備を高唐に、単経を平原に、徐州牧の陶謙には発干に兵を出すように依頼して袁紹を圧迫します。
ここで曹操は袁紹と合流して公孫瓚の軍勢を撃破しました。袁術はその後、曹操を討つ為に南陽郡からノコノコ出てきたところを、袁紹派の劉表に退路を塞がれ、匡亭の戦いで曹操に敗れ、揚州に逃げていきました。ただ、ここで陶謙が公孫瓚を介し袁術派であった事が、後の徐州虐殺に影響を与える事になります。
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袁紹の手伝いで陶謙を攻め親父を殺される
じつは、袁紹&曹操vs袁術&公孫瓚&陶謙が戦っている最中、曹操の父である曹嵩が陶謙配下に殺害されるという事件が起きました。どういうわけか、正史三国志は曹嵩が殺害された時期について時系列では書かず、突如として曹操が徐州より帰還したと書き、その理由を曹嵩が瑯邪郡に避難したところを陶謙に殺された復讐の為としているのです。この前後逆さまになった記述は、曹操の徐州虐殺が陶謙の責任ではなく、曹操が袁紹を手伝って陶謙と戦った結果として起きたという事を暗に仄めかしているとも考えられます。
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徐州に軍を派遣していた袁紹
また、曹操の所業として強調される徐州虐殺ですが、ここには袁紹軍も派遣されている事が朱霊伝から明らかにされています。 ここには、曹操が陶謙を征伐した際、袁紹は朱霊に三営を組織させて曹操を助けさせ、戦に功があったと記されています。この三営がどの程度の兵力なのか不明ですが、一営が4000人という説を採用すると12000人という大軍を派遣している事になります。これは曹操単独の報復戦というより袁紹との共同作戦の延長ではないでしょうか?
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呂布との戦いで疲弊した曹操に袁紹が帰還を命じる
徐州で陶謙と戦っている最中、ようやく手に入れた拠点である兗州では、軍師の陳宮と張邈が曹操に背き呂布を引き込んで背いていました。曹操は慌てて引き返し、呂布との果てしない戦いが続き疲弊します。それを見た袁紹は人を派遣して曹操に自分の所に戻ってくるように勧めています。この頃、曹操は兗州を失い、軍糧も尽きていたので自信を失い、ついつい承知しようとしますが、ここでは程昱が曹操を止めて、曹操も我に返っています。
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三国志ライターkawausoの独り言
曹操が袁紹と上手くいかなくなるのは、西暦196年、献帝を許に迎えて以降です。袁紹は曹操の風下に立つのが面白くなく、このあたりから武帝紀に袁紹が出てくる部分が少なくなります。しかし、曹操が袁紹なにするものぞと言い出すのは、西暦199年になって後なので、かなり長い間、曹操にとって袁紹は脅威であり続けたのでしょう。
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