官渡の戦いで動員された兵力はどれくらい?兵力差10倍は本当か?

2022年6月3日


 

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力をつけ始めた曹操をぶっ潰そうと考えた袁紹

 

官渡(かんと)の戦いで覇を競った曹操(そうそう)袁紹(えんしょう)ですが、曹操は河南一帯と江蘇(こうそ)の一部を、袁紹は河北に山西、山東を支配していました。両陣営とも領土的にはそれほど大きな差はありませんでしたが、その兵力は10倍の開きがあったと言います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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袁紹軍の兵力は10万

公孫瓚を倒した袁紹

 

武帝紀(ぶていき)によれば公孫瓚(こうそんさん)を滅ぼし、冀、幽、并、青四州を掌握した袁紹軍は、10万を超える兵を有していたとあります。程昱伝(ていいくでん)も同様に、袁紹は黎陽(しゅんよう)から10万の軍兵を擁して南進を図ったとあるので、袁紹軍の数字は正しいと言えるでしょう。

 

審配(しんぱい)

 

また、袁紹伝には袁紹は数十万の兵を有し、審配(しんぱい)逢紀(ほうき)に軍事を統括させ、参謀には田豊(でんほう)荀諶(じゅんしん)許攸(きょゆう)、将軍には顔良(がんりょう)文醜(ぶんしゅう)を任命し、選びぬかれた精兵10万に1万の騎兵を率いて許都(きょと)を襲撃しようとしたとあります。つまり、官渡の戦いで動員された兵力は11万ですが、袁紹軍全体の兵力はさらに多かったということでしょう。

 

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袁紹軍全体の兵力

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志(本)書類

 

蔡琰伝(さいえんでん)には曹操が袁紹らを滅ぼし、冀州牧(きしゅうぼく)を兼ねた際に冀州は戸籍が30万を超える大州であると言っています。後漢書(ごかんじょ)郡国志(ぐんこくし)にある各郡の戸籍と人口を算出すると冀州の戸数は約90万戸で、人口は約600万人です。

 

これがいつ頃の記録かは定かではありませんが、河南尹(かなんいん)の戸数に関しては永和(えいわ)5年(西暦140年)の記述が見られるので、この年を基準とすると約60年間で戸籍が3分の1に減少していることがわかります。

 

進軍する兵士c(モブ用)

 

人口も同じように考えると官渡の戦い前後における冀州の人口は約200万人。この5%が兵員だったとすると10万人、10%とすると冀州だけで20万程度の兵力を有していたとことになります。

 

鄧禹と兵士

 

また、公孫瓚を降したことでその兵力も吸収しているはずなので、それらを合わせると最大で30万程度の兵力はあったのではないでしょうか。袁紹は他にも并州(へいしゅう)青州(せいしゅう)を有していましたが并州は戸数が少なく、冀州に次ぐ戸数を誇る青州は戸籍を正確に把握していなかったようです。

 

袁紹、袁尚、袁譚

 

袁紹伝が引く九州春秋(きゅうしゅうしゅんじゅう)の記述を見るとわかりますが、袁譚が青州刺史となった際に1万戸を超える城邑(じょうゆう)も記録上は数百となっており、租税は3分の1にも満たなかったとあります。旧公孫瓚軍は戦が終わったばかりですし、そのまま編成する可能性も低いです。そのため、官渡の戦いに動員されたのは冀州の中枢を担う兵たちだったと考えられます

 

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曹操軍の兵力は1万人?

魏志(魏書)_書類

 

武帝紀によれば建安(けんあん)5年8月の時点で兵は1万に満たず負傷者の数も2,3割に上っているとあります。また、荀彧伝でも曹操が許都への帰還について相談した際に、荀彧が10分の1の兵ですでに半年持ちこたえていると励ましているので、曹操軍の兵力は1万前後と考えられています。

 

歴史書をつくる裴松之

 

ただ、裴松之(はいしょうし)が反論しているように曹操は挙兵からほぼ負けておらず、青州黄巾勢力を降して30万という軍勢から精兵を編成していること、8万人近い袁紹兵を坑殺した人員など疑問も少なくありません。

 

白耳兵を率いる陳到(兵士)

 

そこで考えられるのは、武帝紀の記載が曹操の直轄として動いていた部隊の数であり、全軍ではなかった可能性です。実際、官渡の戦いに前後して劉表(りゅうひょう)が袁紹に加勢したり、関中では馬騰(ばとう)韓遂(かんすい)が争いを繰り広げていたり、孫策(そんさく)も許都急襲を企てるなど曹操領の周囲は不穏な情勢が続いていました。

 

曹操を励ます荀彧

 

そのため、兵力を分散せざるを得ず、曹操の部隊も1万程度しかいなかったと考えられます。また、荀彧が述べている言葉は弱腰になった主君を励ますものなので、多少盛って話をしている可能性もあります。

 

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曹操領内の人口

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

 

では曹操軍全体の兵力はどれくらいだったのでしょうか?

 

前述した戸籍を元に計算すると、後漢時代は曹操領内の人口が約1,600万人、袁紹は約1,230万人です。これが3分の1に減少したと考えると曹操が約540万人、袁紹が約410万人となるので、兵力も曹操の方が上だったと考えられます。

 

太平道の祖・張角(黄巾賊)

 

しかし、曹操の支配した地域のうち徐州(じょしゅう)豫州(よしゅう)兗州(えんしゅう)張角(ちょうかく)黄巾党(こうきんとう)の信者を獲得した地域です。さらに徐州は曹操が自ら虐殺を行っていますし、董卓(とうたく)が洛陽を廃墟としたことで大規模な人口の流出が起きています。

 

イナゴに畑を荒らされ食料不足(蝗害)

 

加えて、194年にはイナゴによる大飢饉が発生し、穀物の価格高騰によって人が人を食らう状態でした。そのため、曹操の勢力下にはそれほど多くの人口がいなかったというのが実情でしょう。

 

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三国志主要戦図一覧

 

曹操の挙兵から官渡までの兵力推移

呉と蜀を倒しに南下する曹操軍

 

曹操が兵を獲得した、あるいは戦闘によって失った経歴を抜粋しました。

 

189年 挙兵し5千の兵を集める

191年 黒山賊(こくざんぞく)白繞(はくじょう)を破り、東郡太守に任命される

192年 10万あまりを率いていた黒山賊の眭固(すいこ)于毒(うどく)匈奴(きょうど)於夫羅(おふら)らを撃退

兗州牧となり30万の戦闘員を抱える青州黄巾党と戦い降伏させる(青州兵を獲得)

194年 兗州を奪った呂布との戦いに破れ、青州兵が大打撃を被る

196年 汝南黄巾軍を破り、何儀とその部下を降伏させる

197年 張繡が降伏するが、反乱を起こされて敗北

198年 張繡を撃破

呂布を討伐して兗州の一部と徐州を制圧

199年 再び張繡が降伏

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

上記の中で分かっているのは、曹操が挙兵時に5千の兵を有していたことです。しかし、これらは長安に逃げた董卓を追撃した際に壊滅しています。その後は揚州(ようしゅう)へ逃れて徴兵し、東郡太守(とうぐんたいしゅ)となった時に多くの人材が曹操のもとに集まりました。その後は戦闘によって兵の増減がありますが、詳細はわかりません。

 

ただ、総合的に考えても5万以上、あるいは10万程度の兵力を抱えていたとしても不思議ではないです。袁紹ほど余力はなかったと思いますが、10分の1という計算にはならないでしょう。

 

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官渡の戦い特集

 

 

 

三国志ライターTKのひとりごと

TKさん(三国志ライター)

 

曹操は四方を敵に囲まれていて、袁紹はたびたび劉備(りゅうび)を派遣して汝南(じょなん)を荒らしています。また、関中方面では韓遂と馬騰が争うなど不穏な動きもありました。

 

藏覇(臧覇)

 

加えて、劉表と孫策の動きにも警戒が必要でしたし、袁譚が治めていた青州方面の備えにも臧覇(ぞうは)を置いています。官渡に戦力を集中させることは不可能であり、万一に備えて各地に兵を配置する必要はあったはずです。そう考えると局地的に袁紹軍との兵力差が10倍となる場面があったとしても不思議ではありません。

 

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KOEIの「三國無双2」をきっかけに三国志にハマる。
それを機に社会科(主に歴史)の成績が向上。 もっと中国史を知ろうと中国語を学ぶために留学するが 後になって現代語と古語が違うことに気づく。


好きな歴史人物:
関羽、斎藤一、アレクサンドロス大王、鄭成功など

何か一言:
最近は正史をもとに当時の文化背景など多角的な面から 考察するのが面白いなと思ってます。 そういった記事で皆様に楽しんでもらえたら幸いです。

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