三国志の北伐の物語を読んでいると、孔明(こうめい)にしろ、
姜維(きょうい)にしろ、祁山や街亭というポイントに、
やたらに、こだわっているように見えます。
しかし、いずれの地点も、別に肥沃な土地でもないし大都市でもありません。
では、どうして、彼等はこだわったのでしょうか?
そこには、平地に慣れている日本人には想像できない、
漢中(かんちゅう)から長安に抜ける土地の険しさがあったのです。
山脈の間に道があるという益州周辺の状況
現在の中国の地図を開いてみますと、大陸の東側と西側で、
かなり、道路の密度が違うという事に気が付きます。
東側は平地で開けていて、道路も緊密に走っていますが、
目線を西、長安から西に向けてみると状況は一変します。
そこには、山脈の淵をなぞるような形で大きな道路が、
延びているだけで、東側のような網の目の道路網とは
比較にならない寂しい単線の道路があるだけです。
普通なら画像をアップすればするだけ、
細かい道路が放射状に延びるというのが普通ですが、
そういう事もないのです。
想像を絶する険しさだった蜀の桟道
かつて、秦の帝都だった咸陽(かんよう)より西は、
秦嶺山脈という2000m級の山脈がそびえる土地で、
山岳民族の住む所でした。
ただ、秦嶺山脈を突き抜けた先に肥沃な巴蜀の盆地があり、
そこを開く為に、秦は険しい断崖を削り、杭を打ち込み、
その上に板を渡す形で蜀の桟道という細い通路を造ったのです。
その苛酷さは、想像を絶し、項羽(こうう)によって漢中王に任じられた、
劉邦(りゅうほう)が、この巴蜀の桟道を通りましたが、
100名から2~3人は転落死するという険しさでした。
それでも、その桟道を通るのが一番安全な蜀への道だったのです。
この一点だけでも、この辺りで戦闘が起きる事の困難を物語ります。
祁山にしろ、街亭にしろ、そこしか通れなかった。
現在でも、山脈を削った何本かの道路しかない秦嶺山脈から蜀へ至る道です。
1800年前は、それ以上にルートの選択肢が無かったでしょう。
例えば祁山は、天水のような北方異民族と連携する為に不可欠な地点なので
取られないように魏は要塞化してしまいました。
本来なら通過したくないのですが、必ず通らないといけないので、
一々、戦争の度に、孔明も姜維も祁山を落すしかなかったのです。
逆に、こういうポイントを例えば、夜陰に乗じて通過するように
飛ばしてしまうと挟み撃ちに遭うリスクが高まってしまいますし、
挟まれても逃げ道もありません。
非常に窮屈で地味な戦いが北伐という闘いだったのだと思います。
孔明の目的からも祁山は絶対に必要だった
また、孔明の北伐には、涼州を分断して魏から切り離し
蜀の陣営に引き込むという戦略が常にありました。
涼州は人口42万人、10万戸と大した人口ではありませんが、
戸籍には表れない、騎馬に熟達した羌族のような異民族兵が多く
実際に馬超が、それらをまとめて曹操を追い詰めた
潼関(どうかん)の戦いのようなケースもあります。
騎兵を率いて、長安を攻めた事もありますから、
涼州の騎兵を手にするのは、一州を手にする以上の価値があると
孔明は考えたのだろうと推測します。
まあ、いずれにしても、涼州を魏から奪い取るには、街亭、
そして祁山を手中に収めて、堅く守り、魏の奪還軍をはねかえす
必要があったのです。
関連記事:孔明の北伐はノープランだった!?北伐の意図は何だったの?
関連記事:孔明の北伐の目標はどこだったの?
関連記事:孔明とは違うのだよ!天才姜維の斜め上北伐とは?両者の徹底比較