曹操が基礎を組み立て、曹丕(そうひ)が皇帝となって開いた魏王朝。その後曹叡(そうえい)・曹芳(そうほう)・曹髦(そうぼう)の三人が皇帝となって行きますが、曹叡まで魏の最高潮の時期でした。曹芳・曹髦は魏の権威は失墜し、魏の権力はほとんど司馬家に移ってしまい魏の滅亡は目前となっておりました。こうした中魏の最後の皇帝である曹奐(そうかん)が新しい皇帝となります。
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魏の最後の皇帝が擁立される
司馬昭は曹髦を倒した後、新たな皇帝を擁立しなくてはならなくなります。彼は新たな皇帝として燕王(えんおう)の息子・曹奐(そうかん)を新しい皇帝として即位させます。こうしてあらたな皇帝として曹奐が即位する事になります。曹奐は皇帝に即位するとすぐに司馬昭へ晋公(しんこう)・相国(しょうこく)の位を与えようと考え早速司馬昭に使者を送ります。しかし司馬昭は曹髦を殺害してしまった直後で、曹髦殺害を大いに悔やんでいる事が原因で、曹奐からの贈り物を受け取る事をしませんでした。曹奐は司馬昭が位を受け取らなかった事に驚き、すぐに再度使者を送りますが、司馬昭はまたしても曹奐から送られた位を受け取る事をしませんでした。こうして曹奐と司馬昭との間で5回も使者が往復し、5回目になってやっと司馬昭は曹奐からの送られてきた位を受け取る事をします。司馬昭は晋公・相国の位に就いたことで、次の昇格を迎えると曹奐が居る皇帝の位に就く事になります。
魏国を取り巻く状況が刻々と変化していく
曹奐は司馬昭に最大級の位を授けても、魏の国が置かれている状況は何にも変わるどころか、どんどん追いつめられて行きます。曹魏が追いつめられていく事になった原因は、三国の一角であった蜀が滅亡してしまった事です。司馬昭は蜀が連年の北伐によって大いに国力を低下しているとの情報を手に入れると、側近である鍾会(しょうかい)に大軍を与えて蜀討伐へと向かわせます。鍾会は蜀軍と遭遇すると幾度か勝利を収める事に成功しますが、剣閣(けんかく)に籠った蜀軍を打ち倒すことができずにてこずってしまいます。しかし鄧艾(とうがい)の別動隊が見事に蜀の内部に侵入する事に成功し、蜀の本拠地である成都城へ向けて進軍していきます。蜀の皇帝である劉禅は鄧艾軍が成都城へ迫ってくると驚き、魏へ降伏する事になります。こうして蜀が滅亡した事で、魏軍は外圧が無くなった事で大いに楽になります。
司馬昭の息のかかった配下が魏の政権に参加する
蜀が滅亡した事により、魏の政権の内部では大きく司馬家の勢力が拡大します。そのため魏の政権では司馬昭配下の家臣が多く、魏の政権に参画する事になります。代表的な家臣としては曹ぼう殺害の支持者である賈充(かじゅう)、元曹爽の配下である裴秀らが司馬昭の文官兼参謀役として宮中に出入りします。司馬昭の文官兼参謀役として宮中に出入りします。また武官では陳矯(ちんきょう)の息子である陳騫(ちんけん)・陸遜の息子である陸抗(りくこう)と敵同士でありながら親密な親友関係を築き、魏の荊州方面で活躍する事になる羊祜(ようこ)らが武官ながら司馬昭を指示していきます。
呉の皇帝が入れ替わる
蜀の滅亡後、呉の皇帝であった孫休(そんきゅう)が亡くなると、次世代の皇帝である孫晧(そんこう)が皇帝に就任します。孫晧は皇帝に就任する前の評価はすこぶるよく魏の脅威となるような人物でした。彼の評価は「小覇王と言われた孫策(そんさく)に匹敵する人物」と言われておりました。皇帝に就任した当初は、孫策と言われた評判通り民衆に施したりと、名君にふさわしい行動を行っていきますが、次第に孫晧の態度が変わり暴君として変化してしまいます。彼は逆らった家臣や気にくわない家臣を見つけたらすぐに殺害。また後宮の美女を大いに蓄えて酒池肉林の生活を始めていきます。
司馬昭死す
この孫晧の暴虐ぶりの情報を手に入れた司馬昭は、当分の間呉に注意する必要はないと判断。魏王朝にとどめを刺して司馬家の王朝を開くための準備を行っていきます。しかし司馬昭は魏王朝を閉じる前に亡くなってしまいます。
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