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【解煩督】呉にだっているぜ!解煩、敢死、無難、様々な特殊部隊

2016年12月19日


 

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曹操と虎豹騎

 

以前、kawausoは虎豹騎(こひょうき)や虎士(こし)、

赤甲兵(せきこうへい)のような個別の名前がついた部隊を紹介し

記事末の独り言で、

「呉には、個別名を冠した部隊が見当たらないので、

ご存じの方は情報を下さい」と書きました。

 

kawauso

 

すると、読者様から呉には、無難軍というのがあったという情報を頂きました。

そこから調べていくと、無難(ぶなん)軍ばかりではなく、解煩(かいはん)、

敢死(かんし)という、いかにも呉っぽいネーミングの部隊名が出てきました。

 

前回記事:【保存版】カッコいい!三国志の精鋭部隊を一挙紹介

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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怒りの劉備を防ぐ為に造られた解煩督

朝まで三国志 劉備

 

しかし、呉の部隊の名前は、虎豹騎や赤甲兵というカッコイイ

外面を印象づける魏や蜀のケースとも異なり、かなり異質ですね・・

無難、解煩、敢死って、無難は兎も角、後の二つは、

「見よ!俺達の生きザマ!」的な内面が滲みでる名前です。

 

朱然と関羽

 

その中で、解煩督は、劉備(りゅうび)関羽(かんう)

呉の呂蒙(りょもう)に殺された事で怒り、呉に侵攻した夷陵の戦いの時に

造られたようです。

この頃、大軍でやってくる劉備に対して兵が足りなかったので、

孫権(そんけん)の命令で、胡綜(こそう)という人物によって徴兵されました。

 

解煩督 呉

 

解煩督の督について、あくまでもザックリ説明しますと、督は、

ある程度、独自の判断で兵を動かせる独立した兵団の指揮官で、

一定の地域ごとに区割りがされ時代の有力な武将が任命されました。

 

推測、解煩督とは、仏教徒で組織された兵団・・

水月観音像(仏像)

 

呉は支配地の周辺に異民族がいて開拓と異民族討伐がセットなので、

督の自由裁量を認める必要があり、割合によく督が出てきます。

 

解煩督とは、どんな部隊なのか名前からは窺い知れませんが、

もしかしたら、煩という仏教臭い漢字から考えると、

呉の国内の仏教徒を組織して編成した部隊かも知れません。

呉の地域は中国でも特に仏教が根付くのが早く、

陶謙(とうけん)の配下であった笮融(さくゆう)は仏教に目をつけて

信徒を纏め食糧や酒を振る舞って宗教兵団を造り上げています。

 

孫堅

 

古くは孫堅(そんけん)が江東の地域で暴れ回る黄巾賊もどきの宗教兵団を退治して

声望を集めましたが、或いは、孫権はそれをヒントに、

共同生活をしていた仏教徒を集めて、解煩督として組織した

という事かも知れません。

 

もし、そうなら、その信仰から来る団結心は蜀軍の脅威だったでしょう。

呉に従って戦えば、煩悩から解き放たれる=死ぬ、

だから解煩隊、うーん、全滅しか連想できません。

 

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董襲、凌統、韓当等が率いた敢死督!

甘寧 呂蒙 凌統

 

一方の敢死督も、これもうわぁな部隊名です。

勇敢に戦い死ぬ部隊で敢死隊ですから、もう生還できないっぽいです。

実際に、この敢死督を率いたのは、董襲(とうしゅう)凌統(りょうとう)です。

 

董襲は、西暦212年からの第一次濡須口(じゅすこう)の戦いで、

渡河中に大風により五楼船が転覆してしまいますが、

撤退を勧める部下の進言を拒否。

さらに撤退する者は斬ると厳命して溺死しています。

誰も撤退できないという事は、敢死督も道連れでしょう・・

 

孫権

 

もう一人の凌統は、215年の合肥(がっぴ)の戦いで、

孫権(そんけん)を逃がす為に殿(しんがり)をつとめて奮戦し、

彼一人だけは鎧を着たまま河を泳いで生還しますが、

彼の部隊(恐らく敢死督)は、一人も帰ってこず涙を流した

という逸話があります。

 

敢死督も解煩督も、後に韓当(かんとう)が一万人編成で率いて、

丹陽の賊を討伐していますが、記述が本当なら、

解煩督はともかく、敢死督は三代目という事になります。

 

うーーん、三代目Jソウルブラザーズどころでは無い

気合の入りっぷりですね、敢死隊・・

 

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近衛兵になった無難督・・

袁礼 孫権

 

さて、最期に残ったのが無難督ですが、こちらは近衛兵のようです。

あくまで推測ですが、「天子の難を無くする」で無難だと思います。

実際に、呉帝、孫亮(そんりょう)が独裁権力を振るう孫綝(そんちん)を排除しようと、

全尚(ぜんしょう)に謀った時に、左右の無難督と近衛兵を率いて

逆臣を討つと言っているので、近衛兵の可能性が高いでしょう。

 

そうなると、こちらは、選抜されたエリート部隊で、

どう考えても死を連想させられる敢死督よりは恵まれた境遇にある

と言えるかも知れません。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

解煩督についてさらに言うと、呉の孫権の最初の皇太子、

孫登(そんとう)の教育係は中央アジアの月氏出身の外国人で

仏教徒である支謙(しけん)という人物です。

彼は学識豊かな博士であり、在任中に梵歌(ぼんか)という

仏の教えを分りやすく教える歌なども造り庶民に布教したようですから、

当時の呉は、かなり仏教王国であり、孫権も仏教を避けなかった

という事が出来るでしょう。

 

なので敬虔な仏教徒により組織された戦闘部隊、

(殺生を禁じる仏教が人殺しというのもなんですが、、

日本にも僧兵という存在がありますから・・)

解煩督が組織されたというのは、案外、絵空事ではないと思います。

 

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呉の武将

 

 

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