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魏延は言わずと知れた五虎将軍亡き後の蜀漢の重鎮です。
しかし、魏延の人生は五丈原で諸葛亮が没した後、
大きく暗転してしまいます。
反逆者として誅殺の憂き目にあった魏延ですが、
その悲劇は魏延だけの責任ではありませんでした。
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この記事の目次
全ては劉備の死を契機に始まった
魏延は荊州義陽郡に生まれ、部曲を束ねていました。
部曲というのは私兵団の事で劉備も部曲の隊長です。
西暦212年、劉備が劉璋の蜀を獲ろうと益州に入ると
魏延もそれに従いしばしば戦功を立てて牙門将になりました。
牙門将とは、三国志の時代に生まれ晋の時代に引き継がれるのですが
この牙門というのは陣営の門を守る将軍で、特に勇猛であり
時に別動隊として動くこともある機動力の高い将軍です。
いかにもスタンドプレーが大好きな魏延らしい地位です。
劉備が魏延を重んじるのは並大抵のものではなく、外界への玄関先であり
戦略的にも超重要である漢中太守を任せています。
当時、劉備の周辺では劉備の義弟の張飛こそが
漢中太守に任じられると考えられていて
張飛もその気でありましたが、一転して任じられたのは魏延でした。
きっとガッカリした張飛ですが、不満めいた一言もありません。
それだけ魏延の武功が抜群であり認めていたのでしょう。
ところが、その引き立ててくれた劉備が夷陵の戦いに敗れて
西暦223年に病死すると魏延の命運にも陰りが生じてきます。
諸葛亮と同僚であり部下という不安定な魏延
劉備の死後に、逸早く劉禅を後継者にして丞相に就任、
蜀漢の権力を握ったのは諸葛孔明でした。
三国志演義では、劉禅の忠臣のように振る舞う孔明ですが、
蜀の絶対権力者は孔明と言い切っています。
そんな諸葛孔明は魏を討伐する為に北伐の軍を興して漢中に入ります。
それ以前、孔明は劉禅の命令で丞相府を開いていました。
漢中には、督漢中、鎮北将軍、漢中太守として全てを取り仕切る魏延がいたので
孔明は、一度、魏延を解任して自身が漢中の全権を掌握し
その上で魏延を督前部、領丞相司馬、涼州刺史に任命し直します。
魏延に与えられた領丞相司馬という地位は蜀帝国の役職ではなく丞相府の役職です。
ここで魏延は鎮北将軍としては蜀帝国の将軍として孔明と同僚、、
同時に丞相司馬としては孔明の部下という微妙な地位に置かれました。
この事実、後の魏延の人生に大きく影響しますから覚えておいて下さい。
二重の権力、丞相府とは?
魏延の悲劇を語る前に丞相府について説明しましょう。
丞相府は、丞相や、大将軍、車騎将軍のような高位の将軍が
王なり、皇帝なりの許可を得て開く事が出来る軍事と行政の権限を持った
ミニ政府の事です。
耳馴染みのある言葉に言い換えると日本の幕府と同じものです。
日本でも源頼朝や足利尊氏、徳川家康が
天皇により征夷大将軍に任じられて幕府を開いています。
つまり、あくまで本当の政府は朝廷なんですが、その政府の出張所のような
ミニ政府を幕府と言うのです。
諸葛孔明は幕府を開く事で、国家の有能な人材を自分のスタッフとして引き抜き
漢中に事実上の政府を開いて、より効率的に魏と戦えるようにします。
上の記述に戻りますと、孔明は、この丞相府に蜀帝国の臣としては同僚の
魏延を部下として引き込んだわけです。
丞相府生え抜きの姜維、楊儀、蔣琬、費禕と対立する魏延
諸葛亮は魏延の傑出した軍事的才能を買ったのですが、
不遜な性格の魏延は孔明の北伐プランに従いません。
孔明は、祁山を抑えて涼州を魏から分断し優秀な涼州兵を味方につけようと
時間は掛かるが安全な戦略を採用しますが、魏延は別動隊を率いて、
電撃戦でサッサと長安を落とすべきと主張しました。
諸葛亮はこれを却下、魏延はそれが不満で諸葛丞相は臆病者と批判します。
繰り返しますが、蜀帝国の臣としては同僚の魏延にとっては、
いかに丞相府では部下であっても、遠慮する必要は感じませんでした。
ですが、諸葛亮に抜擢された生え抜きの丞相府の部下達、
「なんだ魏延のやろう、よそ者のクセして
ウチのボスに大口叩きやがって、嫌な野郎だぜ」
この4名は、東曹掾、倉曹掾、長史というような丞相府の役職を得て
孔明に特別に目をかけられた人で、いわば孔明チルドレン・・
彼らから見ると、外様の魏延が自分達のボスに偉そうに意見するのは、
全く気に入らない事だったのです。
おまけに魏延の方も、劉備と同タイプながら劉備と違い社交性が無い人で
丞相府の面々の機嫌取りもせず、特に楊儀については性格の相違から
剣を抜いて威嚇するようなトラブルさえ起こしていました。
蜀帝国の臣であり同時に丞相府の臣である魏延は、
その不安定な地位の為、敵を増やす事になってしまうのです。
諸葛亮が死去し、楊儀が実権を握った事で魏延の運命は定まった
それでも、魏延の軍事的な才能を惜しんだ諸葛孔明は魏延を解任せず、
辛抱強く使う事にしましたが、それに終止符が打たれる時が来ます。
西暦234年、第五次北伐の途中、孔明は五丈原に没したのです。
孔明は遺言で撤退を命じその責任者を楊儀としました。
これに魏延は戦慄します、このまま楊儀が孔明の柩を守り漢中に戻れば
蜀の権力は楊儀が引き継ぎ、楊儀と仲が悪い魏延は粛清されるでしょう。
魏延は撤退に猛反対し、丞相が亡くなっても軍は無事だから、
戦争に影響はないと主張して、撤退しようとする楊儀を妨害します。
楊儀と魏延は成都に向かい、お互いが叛いたとデマを流しますが、
成都にいた蔣琬と董允は
「楊儀の方が信頼できる」と皇帝劉禅に報告しました。
この蔣琬も孔明に後継者に指名された人であり孔明チルドレンの一人です。
かくして魏延の運命は定まり、反逆者、朝敵になってしまうのです。
間もなく、魏延の軍勢は王平の大喝で追い散らされ、
魏延は僅かな親族を連れ漢中に逃げますが、馬岱に追跡され殺害されます。
豊臣政権における徳川家康のような魏延
魏延の立ち位置は戦国時代末の豊臣政権の五大老:五奉行の関係に似ています。
どうして魏延は叛いた?外様将軍の悲劇
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